2009/07/02

『アメリカ大都市の死と生』と都市計画におけるヒューマニティ

ジェーン・ジェイコブス, 黒川紀章訳『アメリカ大都市の死と生』鹿島出版会, 1977(原著は1961)

近代の都市計画が現実のものとなってきた1961年に、すでに近代都市の死を宣言していた本書。本書前半(4章あるうち原著の内の前半2章が日本語版として流通しているものであるが、本人の了承も得ているそう)は、安全性、人々の接触可能性、子供という3つの観点から歩道の重要性を解き、公園、近隣住区のあり方について主張する。要は下町的、ヒューマンスケールの都市礼賛であり、「輝ける都市」的な近代都市計画が人間性を失っていることへの強いアンチテーゼである。後半は「混用地域の必要性」「小規模ブロックの必要性」「古い建物の必要性」「集中の必要性」などを主張し、それらが多様な都市を生むとする。

そのような本書の主張のほとんどが現代においては自明なことのように感じられる。現代では反対しずらい<正しい意見>として成立しているものである。唯一意見が分かれそうなものが集中の必要性として「人々の都市集中についての消極的な感覚は、生き生きとした計画ができない条件を作り出してきたのである。都市自体にとって、あるいはその設計、計画、経済、あるいは人間にとって密度の高い都市人口が本質的に望ましくないという感情が先天的にあった。しなくてはならないことは、都市生活の発展に機会を提供するに十分に密で、そのうえ多様な集中状態において、そこに住んでいる都市の人々の都市生活を向上させること」と、優れた都市のためには高密度化が前提であるとしている点だろうか。これとてまったく新しい議論ではないが、少なくとも低密度を主張する反対派も多いだろう。あるいはコンパクトシティ論的には、余白を残すために部分を高密度化するというテーゼであって、人口増大(都市拡大)などの問題を前提に高密度を<受け入れる>のと、高密度を<促進>するのとでは差異がある。「下町の復権」などとまとめられることも多い本書の中で、この集中の項が同居していることが面白い。というかそこを本書をただのノスタルジーに落とさないぎりぎりの線だったのではないだろうか。

このような、集中するほどよいというのはまさしく複雑系的思考だが、スティーブン・ジョンソンが自己組織システム的な観点から、ジェイコブスが言う歩道の主張を「歩道は、正しい種類の局所的な相互作用を、正しい数だけ提供する。それは都市生活のギャップ・ジャンクションなのだ」(スティーブン・ジョンソン, 山形浩生訳『創発』ソフトバンクパブリッシング, 2004)と再評価している。歩道はアリのコロニーで言えば嗅覚のようなものであって、働きアリ達が嗅覚でコミュニケーションをとるからコロニーが成立する、つまり都市における創発を支える媒介であるとする。車がなぜいけないかということについてジェイコブスは比較的ノスタルジックな主張に留まっていたが、ジョンソンの言うように系からはずれるから、という単純なことである。そこから考えれば、現代においてはいかに系を設定するか、ということをもっと重要視するべきだろう。ヘッドホンして歩く人とその他の人はある側面では違う系として見られるべきかもしれないし、ヤンキー、主婦、老人、外人等、人種や階級でカテゴライズされた人々、普段ふれあうことのない人々がネットとか趣味とか(趣味は比較的キャラクターのカテゴライズに関係してくるから単純ではないかもしれないが)の別の系でつながる仕組みを考える、あるいはそうなりつつある系の運用の仕方を考える必要があるかもしれない。

もう少し本書を斜めから読むと、あたりまえのこと言っているようでも、古典としての扱いで引用され続けてきた、ということの意味を考えるべきかもしれない。1961年だとしても、近代都市計画に反対した人が他にいないわけがなく、皆が近代都市に夢を持っていたということを差し引いても新しい非人間的な計画(あるいは発展)への憂慮があったのは明らかである。様々な議論がされており、ゾーニングひとつとっても喧々諤々だたったにちがいない。そんな中で本書が画期的に新しい視座をもたらしたと考えることはできないし、つまり本書の主張が反対派の擁護に使われたり、計画を押し進める側のエクスキューズに使われたりと、政治的に扱われてきた、という面は否定できないだろう。

現在の都市計画は本書が主張するような「既知感たっぷりだが、正しい」ヒューマニティを盛り込んだ、都市計画が主流である。ヒューマンスケール、エコ、緑、風の抜ける街路、安全、コミュニティなどのポリティカルコレクトネスをちりばめる。そんな正論を主張されても新しくない、つまらない計画じゃないか、なんて批判も実際のクライアントや世論の前では価値がないのはあきらかで、普通であっても正しいことの積み重ねでものごとが決定されていく。他と同じでも快適ならよいではないか、と。もちろんそれはいいことなんだけど、というかそれらは最低限であって、それ以外のところを問題の焦点にしていかないとだめ、というのがなかなか伝わりにくい。そんな中で、生活する人々の系を操作するというのは、社会の変化とも関係してくるし、面白いテーマかもしれない。

ところで、本書の主張の軸は多様性が必要だということであるが、いまだに変わらずにむしろより必要であるとすら思われるその主張は、この時代から始まった流行だった。しかしなんとなく『建築の多様性と対立性』(原著は1966年)がそのようなことを言い出した最初のように感じていたが、年代を整理してみると本書のほうが5年早かったようだ。