2010/01/20

わかりにくい警告サイン

自宅エレベータの脇にこんなサインを発見しました。ドアの閉まる側に、何かを警告しているものですが、、、。最初見たときはなんてわかりにくい、インターフェイスとしてはダメ極まりない!と思ったのですが、よく見るとヘンテコかつ可愛らしいイラストが書いてあるではないですか。ひとつのサインの中に絵が3種類「ドアに紐や手などを挟まないように」はわかるのですが、その挟まれた様子を内側から描いた絵もあり(なんのため笑?)犬が引っ掛かっているバージョンと何故か紐だけバージョンと。うーーーん、逆に面白い!

確かにこの「なにかを警告していることだけはわかる」サインが、ドアの脇に張ってあるため、瞬時に「手を挟まれないように」というものだなとはわかります。例えば同じところに「注意」と書いてあれば、「何に注意だよ?」というツッコミは可能である(=機能を正確には果たしていないとも言える)にしても最低限の機能は十分果たします。同じように、手を挟みやすいところにこの不思議なイラストの警告サインがあれば、その機能は果たすでしょう。ここでは中身の絵が瞬時に判別できる必要はないのです。

あるいははじめからマンションという、使用者が繰り返し使うことが意識されてデザインされているかもしれません。痛々しい指を挟むようなサイン、過激なデザインはさけ、やわらかいイラストに物語を付与したとも考えられます。エレベーターに乗っている際に暇つぶしになるように?もあるかも。グラフィック的には、サインという情報伝達の仕組みが「最低限であること」を目指してきたと言っていいですが、こんな過剰なわかりにくいものも、その文脈によっては好ましい場合もあるという好例なのではないでしょうか。

サインの機能性としての大前提である、「わかりやすいかどうか」(=機能的であるかどうか)だけを見ると不合格であると言えますが、機能性を最低限確保+毎日見るもので下手な刺激を与えない、という意味ではこんなわかりにくいサインもいいではないか、と思いました。そんな他愛もないことですが、その構造は建築に非常によく当てはまりそうですね。そんな、機能性・効率性のみを過大配点した評価軸を考え直すことも時には必要ではないか、と建築を発注する側の方に(ささやかに)訴えたい笑。配点を決めるのは機能性だけでなく、経済性だけでもなく、もちろんカッコ良さだけでもないですヨ、と。

参考図書など
ドナルド・A・ノーマン, 野島久雄訳『誰のためのデザイン』新曜社, 1990
情報デザインアソシエイツ編『情報デザイン』グラフィック社, 2002

2010/01/10

アバターの想像力

川崎IMAXシアターで話題の『アバター 3D IMAX版』を観てきました。正月休みの流れで娯楽と言えば映画を最近よく観ているので、遊びといってもできるだけそういう自分の糧になるようなものに時間を費やしていきたいと思います、という言い訳めいたことを言いながら、、、勉強、勉強と。アバターには普通の3D版とIMAX3D版があって、見比べたわけではないのでわかりませんが、現在首都圏では川崎しかないIMAX版が一番すごいらしい、ということでわざわざ川崎まで。

最近では『思想地図No.4』でも特集されていたように、人間の「想像力」がどこまで到達できるか、ということは非常に興味深い話題です。クリエイティブに属する人達にとってはそれを体験するのは仕事といってもいいくらい。僕はドラゴンクエスト派かファイナルファンタジー派かと問われればドラクエ派だと答えるのですが、ファイナルファンタジーの提示する世界観のような想像力は世界的に見ても素晴らしいものがあると思っていて、他には例えばナウシカなどの宮崎アニメ(全部ではない)、優れた漫画等、日本が世界に誇るものは「想像力」であるとさえ言えるのではないかと考えています。しかし久々に、ハリウッドの「制作費がすごいからね」とか「コンピュータ技術があるからね」といった言い訳(負け惜しみ)ができない敗北を期したと思えるくらいに圧倒されたのが、このアバターでした。

まず話題の3D映像、これは本当にすごい体験をもたらしてくれます。ディズニーランド的なびっくりするような、ついよけてしまうような3D、キワモノとしての3Dを「想像」している方はそれは過去に体験した記憶にすぎないのであって「想像」とは言えない(などと無理やり「想像力」に結びつけていますがw)のです笑。そういったびっくりのさせ方は主題ではないためわざと避けています。序盤にパターゴルフでころころ(この、ころろころというゆっくり感がポイント)ボールが手前に転がってくるシーンがありますが、そういうシーンで観客の感覚を慣らしているため、後半は本当に自然に3Dの世界に溶け込むことができます。それでいて要所要所でぐぐっと画面に惹きつけるシーンがあって、もう完璧なのではないかと。引いた絵、寄った絵、奥行き(広がり)のある風景、近景の迫力を重視した風景、動きがあって迫力がある絵、動きがなくて迫力を出す絵、等のバランスが本当に優れていて、手馴れているというか、完璧というか。

そして、地球でない惑星での話なので、舞台の背景が全てファンタジー的というかその描き方がもうすごい。出てくる生物もその動きも含めて非常に面白い(もう少し多様性を感じさせてもよかったですけど)し、植物や木や自然などの風景が3Dの迫力を活かしてホントに素晴らしい。思わずうおっと唸る「創造的」な風景描写が満載です。同時に地球人の乗り物などもなかなかなのですが、そういった世界感を体感するだけでもいろいろ刺激されます。1日でクリエイティビティが3割アップした感じです笑。単純に超リアルですし、ドラゴンボールのカプセルコーポレーションの内部(最大の賛辞)をはるかに超えた世界構築の想像力がハンパない。

と、謎にべた褒めの映像は百聞は一見にしかずですが、想像力あふれる「思想」としてぐっと来たシーンは「馬的なものに乗るときにやるあること」と「地元民達が主人公とつながる場面」。異星人(つまり人間にない能力を持つ存在)を描いてきた映画はたくさんあれど、ああいうつながりの描き方はなかったのではないか。この星の人たちは人の考えていることがわかるのです、とか人間にはない動物的な嗅覚を持っていて、、、といったのが普通よくある異星人の描かれかたであって、異星人を地球人にはない優れた特徴をもったものとしてキャラクタライズする際のよくあるパターンなわけです。しかしここでは、それこそ「新しい」異星人の描かれ方がされていると思います。

そこでされるあること(映画では他の異星の特異性と並ぶのでそれほど特殊な描かれかたはされていませんが)は、現代社会に汚染された我々が理想とする「異文化との関係性」であり、かつそれが大変現代的な発想で想像された仕組みであり、、、、、などなど、ネタバレ防止のための曖昧な表現で申し訳ないのですが、裏テーマ的なる「アバターとは何か」に対する「別のアバター性」という答えだと言えるのかもしれません。という製作者の意図とは関係ない、自分勝手な「あえての深読み」にすぎないのですのが、、、まあ、どこかのアニメかなんかでありそうなアイディアなので、映画的な新規感は実際それほどないのですが(過度に期待を煽っても仕方ないですし)この映画でそういう描き方をするということにびしっと共感した次第です。

そんなとにかくすごいアバター、映像はすごいけど話はちょっと、というレビューをいくつか見かけましたが、それほど悪くないと思います。確かに大筋はよくあるパターンでありますが、その枠組、つまり「物語の大筋が定型かつ単純であること」を責めても仕方ないですし。でもその中でも十分ハラハラさせ、盛り上げ、今日的な主題を(言葉でなく)体感として伝達するきちんとした展開になっていたように思えます。だって地球でない惑星で、異星人の文化や特殊能力、アバターという仕組み、人間と原住民の双方の歴史と狙いなどを最小限の言葉と最低限の自然なシーンによるきちんとした文脈づくりが出来ており、主題の伝達もはっきりしていて、人物も手際よく描かれており、あちらの惑星側の視点でその世界観を体感できるあたり、僕としては脚本もなかなかよい!と言い切りたいと思います。主人公の素性が明らかになるあたりなどイマイチ乗れない部分やつっこみどころがマッタク無いわけではないですけど、それは野暮かと。

とは言えリアリティ重視派としてひとつだけ(大きな)文句を言うと、地球人の描き方がバカすぎです。観客の誰もがその行為に怒りを覚えるように、地球人もあんなことを平然とやるほどバカではないのでは、という印象を持ちます。しかしその愚かさを描くことが物語上必要だったとすれば(それはそれでいいと思う)、いまどき「金に目がくらむ」的なきっかけであんなことをやらせるのではなく、例えばささいな何かのきっかけでキレてそういうことをしてしまうとか、地球人にとってこの星そのものの扱われがそもそも酷いとか、そういう人間の本質(それも現代的な)をえぐるようなシーンが必要だったのではないでしょうか。だってだれもが「戦争はいやだ」とか思っているのに戦争が起こっている現実というのは、そう単純な話でないわけだし、この映画が伝えようとしている(それこそ現代アメリカ的な)主題をより強化するものになったはず。そういう内面をきちんと描いていかないと、終盤あの女の子の「彼らの星にはきっと〇〇がないんだよ」とかということで今日得た教訓は「単純に憎むべき敵を設定する」ことこそもうやめるべきでは、と。

そんな感じで、非常にオススメです。2012とか観ている暇があればアバター2回ですね笑。テレビがカラーになった、とか初めてスターウォーズ観た、とかそういう類のブレイクスルーであることは間違いなし。

2010/01/06

母なる証明

年末に見に行ったポン・ジュノ(*うっかり勘違いを訂正しました)監督『母なる証明』、無実の罪を着せられそうになった息子(集中力障害?)を守るために真犯人を探す母の奮闘を描いた作品で、非常に緻密で丁寧なよい映画でした。公開はそろそろ終わり?かもですがDVDが出たら是非。

伏線の貼り方、映像(母が屋上に登るシーンとか、新事実のシーンとか、ラストとか)も素晴しいし、決して説明的でなく、観客に考えさせる余韻を残しつつ、でも丁寧にわかりやすく拾っている、無駄がない感じ。

ただしひとつだけどうしても、いまひとつではないか、と思うところがあったのでネタバレにならない程度に備忘録的に書きたいと思います。とはいえ、映画を観た時の自由な発想を妨げる恐れがありますので、これから観るよという方は読まないほうがいいかも。念のためネタバレ注意ということで。

まず前半で、ささいなシーンですが、息子が黒いあるものを「白だった」と間違って回想するシーンが出てきます。あくまで主人公の症状と後に友人との関係を示す自然なシーンとして。そのシーンがあった上で、終盤大事な場面で、主人公があるものを「白い」として思い出す場面があるのです。その白いものの証言により重要な事実が浮かび上がるのですが、前半のあのシーンが頭にあった僕はそれは主人公の勘違い、本当は「白」ではなかった、という展開を想像してしまうわけです。ところが普通にその「白」が事実であるということが後にわかる。

これはたまたま同じ白黒というモチーフが使われたために(考えすぎ)なのか、その時間の間だけわざと観客に誤解する時間を与えたのか、僕は後者だと思いたいのですが、、、映像とか展開を観るとわざと誤解を与えるように作られたとは思い難い(その、明らかに事実っぽいことに大ドンデン返しがあるのではと期待してしまった分拍子抜けした感があり)です。

とはいえこういう場合作者がどう考えて作ったかよりも、それをどう読むかが(少なくとも読み手にとっては)重要なわけで、「序盤のシーンは後半観客に誤解を与えるための伏線だった」としてみると、これは大変面白い映画なのだと思うのです。作品のテーマが真犯人探し(謎解き)のサスペンスをベースにした「母の愛」だとすると、そこで観客が受ける誤解によって、母へある思いを抱きながら観るわけです。「お母さん、実は〇〇に違いないですよ」と。しかし結局〇〇ではないことがわかる。それがわかった時点で観客は劇中の母と同じ、深い感情を抱くことができたはずなのです。まさにギャップ効果を発揮する最大のチャンスだったのではないでしょうか。そういった「淡い期待を抱かせて結局のところ突き落とす」という感情のモデルを成立させるためには、母がその事実を疑うシーン等が必要だったのだと思いますが、、、。

ということで☆4.0。いい映画には変りないです。韓国映画は表現は多様ですが伝えようとする主題は単純明快なことが多いですね。今のところはキム・ギドク『悪い男』『うつせみ』あたりがマイフェイバリット。

2010/01/04

NP完全問題が解けない理由

ウィリアム・パウンドストーン, 松浦俊輔訳『パラドックス大全』青土社, 2004

巡回セールスマン問題とは、「複数ある都市をセールスマンが営業で回るのに最も効率のよいルートは何か」というものを示すことで、最短ルートを近似的に想像することは出来ても理論的に(コンピュータ等で)証明するのが非常に難解で有名な問題があります。

その巡回セールスマン問題は「NP完全問題(非決定性多項式時間完全 Non Deterministic Poliminal Time Complete)」と呼ばれています。専門ではないのでよく理解できていませんが、どれほど難しいかが「充足可能性問題の計算」というNP問題の一種で示されており、それが面白い。(その筋の方にはちと古いのかもしれませんが、ここではそういう正確さは抜きにして)

充足可能性問題の例として、信じるもの(正しいと証明されたこと)のリストを作ることを考える。二つ目にリストに載る「信じるもの」は第一の「信じるもの」と矛盾しないことを確かめなければならない。その作業は1回。3つ目にリストに載る「信じるもの」は第一の「信じるもの」と第二の「信じるもの」の両方と、両者、計3回矛盾していないことを確かめなければならない。4つ目のリストに載るものは7回、5つ目は15回、6つ目は31、10つ目は1023、1000つ目は10の310乗になるそう!

それを空想上のコンピュータで計算することを考える。並列に数が多ければ多いほうがいいわけで、仮に陽子の大きさ(10の-15乗メートル)の素子を処理装置(CPUチップ見たいなもの)とするコンピュータを仮定する。すると1立方メートルで10の45乗個の素子を詰め込める。

ひとつの素子が、光の速さ÷素子の直径=3x10の-24乗で切り替わり信号を送る(=先の認証作業のひとつをこなす)と仮定すると、1秒に10の23乗の処理が出来る理論上最速のコンピュータということになる。しかし、1立方メートルで10の45乗個の素子を積んだコンピュータ計算すると、最初の1秒で225つ目までリストを作成できるが、次の226個目を認証するのにもう1秒、232番目を調べるのに1分、247番目までは1ヶ月、275番目までは3500万年!

それを宇宙誕生からこれまでの寿命10の17-18乗秒(感覚的にはこれもすごい!これだけか、というか10の18乗ってそんなに大きいのか、というか)にちょっとおまけをのせて10の19乗秒間計算するとすると、10の87乗回の計算ができるが、なんとそれでできるリストは289個にすぎない!

そこでコンピューターの数を増やすしかない。ひとつ1立方メートルなどと言わず、宇宙の大きさくらいのコンピュータを作ってみる、と(これまたすごい仮説w)。およそ120-140億光年(1光年は10の13乗キロ)と言われているそうだがとりあえず1000億光年とすると、10の126乗個の素子を積んだコンピュータが出来るらしい。

その「宇宙の大きさ」で「永遠」に計算した結果、、、10の168乗回の計算が可能で、それによって出来るリストはたったの558、、。

原著は1988年(訳書は2004年)なので当時とはコンピュータ処理的に何がしかの革新(それこそ指数関数的な)が起きているかとは思いますが、専門外の僕にとってはそもそもその正確さなどはどちらでもよくて、この思考実験の発想とスケールが面白いなと思いました。しかしNP問題が難解と言われているのは今も変わらず、というかその難解さの理由が物理的な限界であるというのが驚きです。以上正月の読書より。

2010/01/02

ワンピースと少年漫画

只今劇場公開中の『ワンピース・ストロングワールド』が空前の大ヒットらしく、劇場でもらえるという0巻につられて観にいきましたが、大変バランスのよく老若男女に受けるであろう面白い映画でした。誰が見ても一定の満足感が得られるのは間違いなく、原作者尾田栄一郎さんが全面監修だけあってクオリティもかなり高い。「独自に進化した様々な特殊巨大動物がいる島で、、」という設定からして、劇場で見るにふさわしいスケールを生んでいます。

もともとワンピースは冒険・アクションものという少年漫画の王道ですが、その多方面への気配りの射程の広さはかなりのもの。例えば主人公を取り巻くキャラクターは、キャラクター・特技・で完全にキャラクタライズされており、全員がそれぞれの役割でチームに貢献します。キャラマトリックスを作ったらすべてのマスが満遍なく埋まる感じ。能力者の主人公を囲むチームのキャラを整理すると、男気あるイケメン(剣)、プレイボーイ的なイケメン(足技)、トナカイキャラ(変身・映画ではさらに着ぐるみを被っていて笑いを誘います)、可愛い系の美少女(航海士・気象を操る)、クール系の美少女(特殊な手技)、サイボーグ(体に内蔵した様々な武器)、ガイコツ(剣)、嘘つき(遠隔攻撃)、もちろん敵キャラもかなりバリエーション豊かな展開を見せてますし。

映画でも見られますが、例えば何かを探すシーンで8人のメンバーが必ず3組くらいにバランスよく別れるのもうまい。攻撃系のキャラと特殊能力系のキャラがうまくわかれるのですが、同時にその個別チームはそれぞれ能力の欠如という弱点を持つため物語的に「負けずにやられる」ことが可能(少年漫画的には能力的に弱いというのは見せたくない)で、最終的に全員集合した時の能力補完による充実感の演出につながります。

ということで、ワンピースの漫画としての特徴を考えてみました。

・徹底したチーム戦による能力補完主義(特技を生かした能力バトル)
友情がキーワードであり、ドラゴンボール型の不可避なインフレバトルに陥らない。もちろんインフレ的に敵の強さはエスカレートしていくのだが、さらに強そうなキャラをちらちら挿入してきたり、敵ボスにも中ボス扱いの手下がいてうまく役割分担が出来ている。また腕力的に弱いキャラにも独自の特殊能力があり、一番強いキャラ(ルフィ)は腕力以外では弱点だらけであるという設定も巧み。

・物語の構造設定が生む必然性
そのような敵ボスと側近であるその手下の中ボスがセット(ほとんどボス1側近2で出てくるが)といった設定はともすれば既視感 / 無理矢理感が生まれてしまうが、そこは「海賊団同士の戦い」という設定により必然化することができており、結果的にチーム戦(=主人公強さのインフレの回避)になる。また、敵が海賊であるという設定によって敵が悪事をすることへの疑念を生まないし、海賊は土地に根ざしていないため「行く先々で敵の城に行かねば」といったクリシェを回避する(敵もあくまで通りすがりである)といった構造となる。そのように少年漫画ぽさを追求するがあまりに少年漫画にありがちな「必然性の欠如」を注意深く回避している。

・物語の定型化と形式の反復
登場人物や個々のエピソード(そのストーリーがまず面白いが)の多様性を目指しておきながら、物語に「定型」の枠組みを与えている。つまりそれぞれの話の構成が構造的にほぼ一緒である。船で新しい土地へ行くと、敵の海賊とそれらよりなんらかの被害を被っている地元の街があり(敵を倒すことの正当化)、能動的、受動的にその争いに巻き込まれていき、最終的に敵を倒すのだが、必ず犠牲者でありかつ助け合うことになるキーパーソンが存在し、、、といった具合。そういった定型の反復が共通認識を生むのではないだろうか。アイツの賞金は何万ベリーだろうか(どれくらいの強さか)、アイツの能力は何だろうか(読者は一人がひとつの能力しかもてないことを知っている)、次の島はどんな島か、、、と。度々出てくる海軍に対しても彼らの強さや態度は読者が想像上で把握することが出来ているから海軍が来ただけである種の緊張を感じたりもする。それらの反復によって結果的に少年漫画としての安心感と拡張性(やろうと思えばいくらでも話を伸ばせる)を持つ。

・常に「その先」を想像させる見えない伏線の配置
そのような定型の反復によって生み出されるのは読者の想像上の「未知の島」の存在である。定型がないと「次は何か」としか考えることができないが、反復によって「次」がある「島」であるという認識が共有される。そういった共通認識の上で、先を想像させる伏線(イーストブルーにおけるグランドラインのような)が配置され、その先には何があるか、というワクワク感を生むことに成功していると言える。また「海賊にかけられた懸賞金」という個々の能力を自然に数値化する制度と、様々な能力を持つ能力者(一人につき一つの特殊能力)がいるということ、海軍の存在などの前提条件のもと、「強そう」「謎の能力」「誰だあれ?」といった様々な「その先」を感じさせるキャラが小出しにされ、読者を煽り続けている。

・少年漫画性の担保(特定ジャンルの回避と全方位的配慮)
巧みにセクシーキャラをいれつつ、そしてそれを追いかけるサンジ他のキャラを設定しつつ、徹底的に性・恋愛を回避していくプロット。性の回避という少年漫画問題については、21世紀少年について作者の浦沢直樹は、物語に性は邪魔であるが、例えば彼らを中学生という設定にすると性を入れないとリアルでない、そういった矛盾を避けるために小学生を主人公にした、というエピソードを語っている( 『クイック・ジャパン81 漫画の底力 』 )が、ワンピースも同様、性を適度にお笑いで盛り込むことで存在を否定することなく巧みに回避する。スカッとするような勧善懲悪が(あえて)ベースになっているが当然残酷なシーンもなく、しかし友情あり、お笑いあり、冒険・バトルあり、感動ありと少年漫画性は全方位抑えられている。


といった感じでしょうか。とにかくワンピースはいろいろな要素が詰め込まれ、またそのストーリー構成の巧みさにより、誰が見ても面白く、かつ少年漫画の王道を修正しつつ実践しているものであると言えるでしょう。



そんなわけで正月から誰にむけた何のための文章かわからない、しかも妙に長文を書いてしまいました、、。勢いで書いたので読み返さずに(!)投稿しますが、ご意見などあればメールかツイッターで頂けたらと思います。とにかく『ワンピース ストロング・ワールド』はオススメです。キーとなる「あるセリフ」をもう少しヒネリたいところでしたが。

それでは今年もよろしくお願いいたします。

2010/01/01

あけましておめでとうございます

2010年、10年代の始まりです。停滞の(と一部で言われている)00年代の終わりには私たちを取り巻く環境に様々な変化があったように思えます。政治もメディアもウェブもコミュニケーションも。そんな社会の変化に建築が取り残されないように、新たな気持ちでスタートできればと思います。

昨年は後半ツイッターの盛り上がりとともに(実はそれ以前からですが)こちらの更新回数が減り、どうしようもないサイトになりつつあるのですが、心機一転こちらも週に1回以上は更新していきたいと思います。

拙いサイトではありますが、昨今は「浅く広く」の時代、浅いなりにも努力していきたいと考えておりますので、引き続きよろしくお願いいたします。