2009/07/03

観光社会学の論点

須藤廣・遠藤英樹『観光社会学 ツーリズム研究の冒険的試み』明石書店, 2005

観光社会学に関する本書であるが、様々な研究者の言説を整理しており、良くも悪くも要点キーワード集(キーセンテンス集)かのよう。ただ観光という分野の研究が要領よく解説されているため、とても読み易く勉強には最適であるし、単純に面白い。そんな本書にならってキーワード的に引用を羅列し、さらに整理してみます。

■観光社会学の対象と視点
A・ギデンズによれば、伝統社会の人びとがローカルな状況に埋め込まれていたのに対し、近代社会の人びとはローカルな状況から引き離されるのだとされる。ギデンズはこれを「脱埋め込み化」とした。
観光をめぐっては、「ツーリスト」「プロデューサー」「地域住民」の三つの立場がある。
E・コーエンは観光経験を「気晴らしモード(日常からの脱出)」「レクリエーション・モード(心身の疲労をいやす)」「経験モード(生活様式や価値観を経験)」「体験モード(生活に参加・体験)」「実存モード(永住)」の五つのタイプに分けている。
G・ドグシーによる「イラダチ度モデル」によれば、観光が地域住民に与えるストレスが「イラダチ」を増大させる。そのプロセスは、1.幸福感 → 2.無関心 → 3.イラダチ → 4.敵意 →5.最終レベルとなる。
観光のオーセンティシティ(本物らしさ)をめぐって、D・J・ブーアスティンはメディアによって演出され造り出されたイメージのほうが現実感を持つという「知覚のありよう」を「疑似イベント」としている。「観光客の欲求は、彼自身の頭のなかにあるイメージが、観光地において確かめられたとき、最も満足する」と、ツーリストたちがただメディアによって構成されるイメージを追認しているにすぎず、彼らの経験が疑似的で人工的なものだと考えている。
それに対しD・マッカネルは、ツーリストたちは、単に疑似イベントでは満足せずにオーセンティシティを求め、結果的には擬似的で人工的なパスティーシュ(模造品)に満ちた「表舞台」と、オーセンティシティに満ちた「裏舞台」が交差する、ねじれた空間を旅しているとする。
U・エーコは、蝋人形館ではリアリティそのものが最初にオリジナリティとして存在し、それを人形という形でそっくり再現・複製することで成り立っているが、それに対し、ディズニーランドは参照されるべき、あるいは再現・複製されるべき実在をもってはいないと言う。ディズニーランドではすべてがファンタジーであり、コピーされる実存物などないのである。そのため、擬似的 / オーセンティック、コピー / オリジナルという区別そのものが無効化される。
ポストモダニズムの諸理論によると、もはや純粋な「現実そのもの」を考えることなど不可能であって、イメージや表象の外部に世界は存在しないとされる。世界そのものがメディア化されている。観光もまた同様であり、観光そものもがメディア化されているのである。

■観光の近代化と現代
観光社会学が確立されたのは、先進国において大衆が観光をするようになった1970年中葉であった。はじめてテーマになったのは、1974年にメキシコシティで開かれたアメリカ人類学会のシンポジウム。中世になると、旅行はもっぱら宗教的な「巡礼」という形をとるようになる。僧侶や裕福な者ばかりでなく一般の男女がヨーロッパのあらゆるところから、エルサレムやローマへと巡礼している。
日本でも、移動の自由のない一般の農民にとっては、伊勢参りや金比羅参り等の宗教的旅行は「巡礼」を隠れ蓑にした「日常」からの脱出であった。「抜け参り」という呼び名がまさにそれを物語っている。
大衆向けの観光旅行は19世紀の鉄道の普及と同時に始まった。イギリスでは、1841年にはトーマス・クック社が今のパック旅行の原型となるツアーを始めている。欧米における近代の大衆観光の興隆には、産業社会化、そしてその管理への意思が背景に存在していた。
労働者階級の日常的な合理化は、時間厳守といったような工場労働の規律の厳格化だけでは不完全であり、労働の裏側にある余暇の健全化、合理化が不可欠であった。とくに、18世紀のブランデーの輸入禁止から逆に国産のジンやビールを飲む習慣が蔓延したイギリスにおいて、飲酒の習慣を抑制することは、工場での労働規律を守らせるためにも至上命令であった。
熱心な禁酒運動のボランティアであったトーマス・クックが、禁酒運動の一環として健全娯楽である観光旅行を一般大衆に(とくにそれまで観光から閉め出されていた女性に)普及させようと努めたことは、この時代の観光のあり方を鮮明に表している。また、この時代に鉄道が急速に普及したこともトーマス・クックの観光の普及に大いに影響を与えている。
大衆の観光旅行が担った、社会の近代化に欠かせないもう一つの重要な役割は、大衆に対する「進歩」のイデオロギーの注入である。
トーマス・クックは水晶宮の設計者(ジョセフ・パクストン!)と鉄道会社の社長からロンドン万博への集客を頼まれ、全入場客の3%にあたる約16万人の見学ツアーを組織している。
近代観光は、いわば近代産業主義の「イデオロギー装置」であったと言えるのであるが、同時にそれは、世界中の「見慣れぬもの」へのあこがれ、すなわち「エキゾティズム」野幻想をかき立てるものでもあった。しかし、この「エキゾティズム」は西欧の文化的優位と東洋の文化的劣位を前提としていた。
欧米人の「オリエンタリズム」に触発され、それに呼応する形でそのまなざしの対象であった現地の人びとが、逆にそこから映し出された集合的イメージ(集合的アイデンティティ)をつくりあげるさまは、バリ島観光研究等で分析され紹介されている。
19世紀末にはすでにヨーロッパにおいてもアメリカにおいても世界は征服し尽くされ、「大きな物語」としての「見知らぬ世界」、すなわち大いなる「他者性」はもうすでにほとんどなく、「エキゾティズム」は「オリエンタリズム」に触発されながら人工的につくられていった。
19世紀末から20世紀初頭にかけては、ヨーロッパにおける「伝統の大量生産」の時代であったことも、観光におけるイメージの生産と通底している。
観光に欠かすことができない場所のイメージの生産と消費は、近代の産業主義と、それを支える国民国家の創造のための政治という、近代社会の二側面の共通の底に横たわるイデオロギーと大いに関係がある。
近代国家においては、観光が産業化され、大衆化され、システム化されることにより「観光現象」が社会全体に浸透していく。
ヨーロッパにおける観光現象の発端が禁酒運動やワンダーフォーゲル運動のように大衆の「健全な」余暇の開発を目的とした民間のボランティア的運動であったのに対し、日本における近代的観光現象の発端は学校や職場等の団体旅行にあった。学校が組織した観光旅行の代表は修学旅行であった。
重要であるのは、第一に学校教育が規律訓練的なシステムを物見遊山的なレクリエーション行事と混合させつつ定着させ、国民の余暇活動への欲望を、規律訓練と矛盾しない方向にかき立てたこと、第二に「見学」という実践教育を通して、若者達に国民国家の目標を指し示し、祝祭的な観光を利用しつつ何を見て、何を知るべきなのか、まなざしのあり方を学習させようとしたことである。
現代社会はあらゆる領域において「マクドナルド化」の原理である計算可能性、予測可能性等、近代合理主義の原理が支配しているために、人びとが観光に求めるような「新しくて異なるもの」などほとんどない。
観光は「マクドナルド化されていない要素とマクドナルド化された要素の適切な配合」によって洗練されるのであるが、皮肉なことに合理化を逃れようとする、あるいは合理的に対抗しようとするすべての手段もまたマクドナルド化されてしまう。結局、「ツーリズムはアーリが言うような非日常性を提供できなくなっている」のである。
たしかにブーアスティンの言うように、現代では「現実が疑似イベントにしたがう」ようになっているが、「疑似イベント」自身が多様化し個人化する現在においては、どのイメージがどの現実をつくり出し、それがどう人々に受け入れられていくのか、その過程は再帰的で流動的なのである。観光社会学の視線は観光の「偽物」性を告発する方向ではなく、闘いが行われている「場」の解明にこそ向かうべきなのである。

S・ラッシュは、ポストモダニズム文化の特徴を、1. 文化内容の「脱-文化」 2.「図像による」文化の形成 3.ポスト産業的中産階級の文化 の三つの点からなるとしている。
「脱-文化」についてはアーリは、経済、家族、国家、学問、道徳、美等に関する分野の(水平的な)分解と、文化と生活の区分、ハイカルチャーとローカルチャーの区分、アウラ的芸術と大衆芸術の区分、エリート消費と大衆的消費の区分等の(垂直の)崩壊に分ける。
「有名な」作品だけを簡単に解説しながらまわる美術館のツアー、買い物ツアーの観光客を前提としたものに変化する名門ブランドなど、観光文化がポストモダニズムのある側面を積極的に作り出していることに注目しなければならない。
ディズニーランド文化の特徴はその都市の中の人工的な「飛び地」性と関係している。ディズニーリゾートは観光地であるが、どれも都市の郊外にあり、何もない土地を人工的に造成してできたものである。特に東京など、アメリカ文化と関係の薄い文化的環境の中に突如「飛び地」としてアメリカ文化が成立しているところに特徴がある。
いまやただ空間を眺めるだけでは非日常性は得られない。観光客もスペクタルの一要素となる。これは近代がつくり出した視覚中心のまなざしの全域化であろうか、それとも視覚の先制の終わりであろうか。いずれにしても観光の中における演技的諸要素、身体感覚をともなう非日常経験がますます増大するのである。