2010/02/22

不可視のビーチ

最近昼間は自宅で論文作業などを進めているため、月曜日の昼間からTVで映画を見るという堕落的なことを(笑)してしまったのですが、、、本日放映されていたレオナルド・ディカプリオ主演『ビーチ』が、その「水着のギャルが出るリゾート楽園ムービーで起きる事件簿」的な安い印象とは違い、なかなか興味深いテーマでした。

映画を貫くテーマは見えないものと見えるもの、可視 / 不可視 とはどういうことか。これは、映画というメディアの特性として、おそらくいろいろ扱われてきたものであるとは言えます。例えばスピルバーグが最後までジョーズの姿を観せなかったこと。未知との遭遇。ヒッチコックの恐怖の煽り方。そのような可視 / 不可視に関わらず、不可視だからこそ事柄が間接的に及ぼす心理的影響というものは、映画史に通底するひとつの手法であると言えるでしょう。以下本映画におけるそんなモチーフ(ネタバレ防止のためストーリーの順番とはバラしてます。でも順番=ストーリーは重要ではない)を挙げてみます。

・幻の楽園とよばれる(非可視化されことで神秘性が増す)ビーチ。
・かなりおかしな言動で素性がわからない謎の男。
・世界を偽ってよそ者に心地よい場所を提供するものとしての「観光」への嫌悪。
・ネットカフェで全員が個別にネット世界(=パラレルワールド)に向かう姿。
・死にそうになって苦しんでいる仲間を外のテントに隔離し、その存在と彼がいることによって思い出される悲劇を忘れるための非可視化。
・仲間を銃で撃つという悲劇が可視化(衆目のもとで)されることで崩壊するコミュニテイ。
・別世界(楽園)への象徴としてのマリファナ。
・別世界の中で別世界にはまるモチーフとしてのゲームボーイ。
・楽園の外の実世界の猥雑さを可視化したがらない仲間たち。
・都市伝説的な逸話。
・バンコクのカオサンロードという「沈没(=実社会からは認識されない世界)」の象徴。
・自分しか体験していないこと(=他の人物にとっては非可視)を都合よく語る武勇伝。
・「非可視」であることを十分認識していることによって起こってしまう事件。
・お互いバラされては困る秘密を交換することで、(簡単に可視化されてしまいそうな)非可視化の確保への執念。
・夜の月の光によってしか可視化されない神秘的なもの。

それら不可視なものは、それが事実として存在するかしないかにはまったく関わりません。可視化の有無そのものが大きな影響をもたらしているということを、いろいろなモチーフを散りばめらることで示しているようです。僕は映画の専門家ではないので史的なことは言えないし、たくさんあるであろうそういう映画の中で『ビーチ』が特に新しく、何かを成し遂げているとまでは思えません。テンポはいいですがナレーションも多く、テーマを説明しすぎ(不可視なるもの、というテーマなのに!)だったのも少しうるさく感じ、絵としても特筆すべきものはありません。なので映画として点数をつけるなら「まあまあよい」レベルに留まると思いますが、特にweb2.0以降の現代の社会において可視化 / 不可視化というキーワードは特に重要な概念で、タイムリーだと思いメモ的にとりあげてみました。

僕は建築でも、不可視化されているからこそのもの、可視化されることによること、などといった間接的に空間に与える影響のコントロールが重要だと考えております。2008年にはそうした観点で自由が丘にレストラン(+住宅)を設計しました。いずれ、「可視 / 不可視」によって空間の「情報 / 記号性」をコントロールすることで生成する「間接性 / アーキテクチャ的」としての設計行為について論にまとめてみたいな、などとも思っております。

2010/02/03

吉村靖孝さんのセルフ吉村論

「建築家の読書術」吉村靖孝さんの会を聴講して来ました。読んだ本を順に説明しながら、古谷研的思考・MVRDV的思考・その後の思考を巡るセルフ吉村論となっており、非常に明快で面白かったです。吉村さんは僕の遠い先輩、読んでいる本など(特に自分の論文でも扱おうとしている『Code』『監獄の誕生』など)かなり近く、自分の思考が遠い先輩の支配下にあることを再確認させられましたw もちろん意識的にやっている部分はありますが。

ということで、レクチャーが非常にわかりやすかったので、レクチャーの構成そのままに20の本を順に挙げます。(だいたいレクチャー通りのつもりですが、勝手な意訳もしてるかも)

まずは1994-1999に在籍していた古谷研時代の本ということで8冊。吉村さんの関わった仙台メディアテークコンペ古谷案の時の話から建築が行為を規制しないことの可能性を探りたいと、フィルタリングによって「見たいものしか見なくて済む」という社会が果たしていいのかどうか?というテーマから、不完全さを担保するためのコードを考える環境管理型の社会をいち早く提言した
ローレンス・レッシグ, 山形浩生訳『Code』翔泳社, 2001

その環境管理型の社会という概念の起源として、パノプティコン(視線の一方向性が重要)の規律訓練型権力を扱った
ミシェル・フーコー, 田村俶訳『監獄の誕生 監視と処罰』新潮社, 1977

フーコーの規律訓練型権力(監視)が社会に溶け込んでしまう可能性を示唆したものとして
ジョージ・オーウェル, 高橋和久訳『1984』早川書房, 2009
ビッグブラザーが主人公を監視するという中で、裏切られて矯正されていく主人公が最後に、(怯えて暮らしていたんだけど最終的に監視されていることを忘れて)「ビッグブラザーを愛していた」と言ってしまうということが、社会に対する批判に読めるという。

そのような世界認識の違いとして、環境と環世界(生物ごとに環境から選びとった別の視覚世界)を描いた
ユクスキュル + クリサート, 日高敏隆・羽田節子訳『生物から見た世界』岩波書店, 2005

個体間の距離など視覚だけではない、文化を左右する環境とは何か、つまり人間界における環世界的なものを扱おうとする
エドワード・ホール, 日高敏隆・佐藤信行訳『かくれた次元』みすず書房, 1970

『かくれた次元』の続きとして、文化による環世界(つまり、建築のマナー、ふるまい、といった具体的かつ行動の常識を作っていくもの達)と読める
バーナード・ルドフスキー, 多田道太郎監修, 奥野卓司訳『さあ横になって食べよう』鹿島出版会, 1999

そういった、計画しきらずにいかに計画するかという根源的なテーマを建築設計論として実行しようとする
クリストファー・アレグザンダー他, 平田翰那訳『パタンランゲージ』鹿島出版会, 1984

パタンランゲージが持つオープンソース的思想、つまりいかにユーザーと一緒にものを作るか、という問題についてなんでも放任すればいいわけではない、うまく使われるように作るとはどういうことかを論じた
エリック・スティーブン・レイモンド, 山形浩生訳『伽藍とバザール』光芒社, 1999

その実践版と読め、翻訳という行為(特に既に翻訳があるのに再度翻訳するなど)が持つ、(『伽藍とバザール』における)アップデートしたくなる感はどういう動機によるかということ等が熱く語られた
村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』文藝春秋, 2000

という前半には、いわゆるアーキテクチャ型の思想が語られました。そして後半は1999-2001のMVRDV所属時に読んだ、(MVRDV的な)都市論に寄っていく本。

架空の都市を伝聞で記述し、「都市を記述する」ことは「都市を読みこむ」ということだけではなく「都市をつくる」ことになるのではという発想に至ったきっかけの
イタロ・カルヴィーノ, 米川良夫訳『見えない都市』河出書房新社, 2003

MVRDV的都市の切り口のツールとしての統計の操作法についての
ダレル・ハフ, 高木秀玄訳『統計でウソをつく方法』講談社, 1968

その統計のウソを暴き、環境問題を特権的に主張するのではなくきちんと優先順位(とそのバランス)を重視すべきという
ビョルン・ロンボルグ, 山形浩生訳『環境危機を煽ってはいけない』文藝春秋, 2003

MVRDVが数字で都市を記述しようとしたのと同様、木を描くということが単純なルールの設定であるという記述そのもの本質を感じさせる絵本として
ブルーノ・ムナーリ, 須賀敦子訳『木を描こう』至光社, 1999

そういったものごとの記述として、プロテスタンティズム的規律型社会とも言えるオランダの都市についての記述であるとも読める
マックス・ウェーバー, 世良晃志郎訳『都市の類型学』創文社, 1965

アイソタイプ・ピクトグラムなどを使って世界を記述しようとする
展覧会カタログ『世界の表象 オットー・ノイラートの世界』武蔵野美術大学美術資料図書館, 2007

以上のような数学的な記述に関心があったということで
M・C・エッシャー, 坂根厳夫『無限を求めて』朝日新聞社, 1994

色について、認識についての斬新な記述法としての
ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン, 中村昇・瀬嶋貞徳訳『色彩について』新書館, 1997

全住宅を同スケールにて淡々と提示するという「ものさし」が建築の記述法を変える可能性として
東京大学工学部建築学科安藤忠雄研究室『ル・コルビュジエの全住宅』TOTO出版, 2001

そしてMVRDVの師匠であるレム・コールハースが審査したコンペについての特集で、何がポイントなのかよくわからない(から解釈しようと何度も読んだ)という
レム・コールハース「新建築住宅設計コンペ1992 House with No Style」(『JA No.9 1993年春号』新建築社, 1993 所収)

レムのダリについての記述と、ダリとラカンの関係(とジジュクの関係)からレムを想起させるという
スラヴォイ・ジジュク, 鈴木晶訳『斜めから見る』青土社, 1995

という感じで、吉村さん自身の出自に照らし合わせてアーキテクチャ概念からそれによる都市/建築の記述(可視化というテーマ)に至るまで、当時読んで影響を受けた本からセルフ吉村論を展開するという流れでした。

倉方俊輔さんの、「吉村さんが超合法建築でやったヘンテコなものが持っている秩序の可視化といった明快さ」と「変なものに変なものをぶつけたりと作品で見せるわかりにくさ=非一元化」という一見相反する思考がこのレクチャーで合致したという指摘もなるほど、という感じ。葉山のリノベ作品を例に、もともとある変な既存という普通に考えると有限の範囲の「文脈」に、さらに変なものを「MVRDV的明晰な論理操作」と共に付加することで、他者性を持ち込み、文脈の多元性を作り出しているのではないか、という指摘でした。

まとめは建築というものは都市の中で「可視性を増す」ことが可能であるという観点において重要なメディアと言えるのでは、ということでした。

個人的には、『Code』でレッシグが挙げている4種のコード「法」「市場」「規範」「アーキテクチャ」の中で、吉村さんが『超合法建築図鑑』で秩序の可視化(=「法」)を試み、MVRDV時代に「市場」をダイレクトに反映したような設計手法を体験し、慣習とほぼ同義の「規範」はルドフスキーや今和次郎が昔やったことだとすると、残る「アーキテクチャ」的概念について、吉村さんがどう考え、建築との関係性において何を重視しているかを聞きたかったのですが、質問時間が少なく質問できず。いつか別の機会に。