2009/07/07

ランドスケープへの懐疑

landscape network 901*編『ランドスケープ批評宣言』INAX出版, 2002

ランドスケープという言葉は、不思議な麻痺作用を持っている。ランドスケープのデザインというと、何をやっていてもだいたい承認されてしまうような部分が少なからずある。それは自然は尊い、緑豊か、といった免罪的な概念と等しく、受け取る側の批評する言葉を奪うからであろう。そんなランドスケープに対して批評の言葉(=新たな作法)を発見しようというのが本書である。冒頭で山内彩子が述べている「誰しもイメージとして「ランドスケープ」のスタイル(型)があり、それらが無意識のうちにどこかで共有されているのではないか」というランドスケープ幻想をどう扱うかというのが、ひとつの軸として設定されている。

高橋靖一郎「自然をみちびくデザイン 引用と模倣を超えて」では、自然が「都市の諸問題をあぶり出すカウンター」としての役割を担って来ており、自然の中で緑化というヴォキャブラリーを適用しても必然性がないように、都市に包含されるものとして自然が扱われてきたとする。自然という免罪符のもと「既存デザインのコピー&ペーストを繰り返したような」公園の再生産、「緑の質と量の確保に豊かな都市生活のイメージを重ねた理想像の提案」が繰り返されている中で、「対象となる空間の環境改善にどれほど寄与してきたかを自覚的に見極めること」と主張する。

小野良平「公園の近代 制度の誕生と計画論の隘路」は、公園が近代社会によって生み出された制度であるとし、「公園の有用性の議論は終わることなく繰り返され、現在でもたびたび国の審議会などの話題となり、かつての機能論と変わりない議論の中、機能のメニューだけが変化」するにすぎないことを指摘する。公園を機能でとらえるのはユニークだが、しかしその通りである。座る、歩く、緑、集まる、運動するといった機能は、公園においては(空間的に)あってないようなものだが、そんな公園に対して機能でものを語るということは、もともと少ない論点を抽象度をあげて並べているにすぎない。建築以上に細やかな計画、作法が必要とされるにもかかわらず、緑、いいですね、運動広場、ああ健康的ですね、遊歩道、憩いの場ですね、といったように公園の計画を機能で議論することの無意味さがまかり通っているようだ。

他にも数人によってランドスケープといった枠組みそのものへの批評がなされており、その中でも新鮮な概念を提示しているものもあるが、全体としてはいまだにランドスケープを正統に評価する軸はぼんやりしているように思える。それはおそらくイメージの問題(=個人の嗜好に影響される)か、建前的な機能の問題(=デザインの捨象)の中間点が提示されにくいことによる。とは言っても、もちろんいいランドスケープデザインはそれなりに実現されているのだがその中で、これは新しいぞ、といえるようなものが少ないように思えるのは、やはり理論不足であるという状況にあるようだ。手法が発見・分析されきっていない、と言うべきか、視る側の評価軸不足というべきか。

クリストの布が何かを表現したものではなくて、何かを可視化するものであることのように、現代においてはデザインによって何かを表現することより、デザインによって何か状況を変えることのほうが優位にあるとされる。とすると何かを表現しようのない(ドバイなどを除いて)ランドスケープデザインは、それがなかったことに比べて、知らされることで初めて体感できる割合が多いわけで、より高度な概念を持ち得るはずなのだ。ひとつの方向性にすぎないけれど、そういった概念としてアースワーク的なものが参照されるべき部分は多いのに、本書にそういった項目がないのが少々残念。