2010/09/23

iPadを使って作られた映像(Dentsu London + BERG)

iPadでホログラムを作り、それをムービーにしたものだそうです。アイディアも凄いけど、それを実現させる展開力(3Dモデルの断面図で作ったムービーをiPadに表示して、時間測って動かす様子を長時間露光でコマ撮り!)に脱帽という感じです。さらにこのようなムービーの中に出てくる単語として「FUTURE」を選ぶというそのセンスも素晴らしい。

Making Future Magic: iPad light painting from Dentsu London on Vimeo.

2010/09/21

BIGのビャルケ・インゲルス(by TED)

ビャルケ・インゲルスのTEDでのプレゼンです。ユーモアを持って合理的に突き進むことで新しいものを生み出す(革命ではなく進化だと言っています。我々は何かに対して反抗しすぎだと)というBIGの思考が、Yes is More という語に全て表されているようです。オジ様方は眉につばという感じで見ている建築家だとは思いますが、単純に面白いですし、面白いだけでなく大きな力を動かす説得力を持ってることがわかるでしょう。
http://www.ted.com/talks/lang/jpn/bjarke_ingels_3_warp_speed_architecture_tales.html
(左下subtitle 欄で各国語字幕を選べます。これって何気に凄いことだと思うんですが笑)


2010/08/14

シンガポールの写真などについて

7月末シンガポールとマレーシアへ10日ほど行っていたので写真でも載せておこうかなと思ったのですが、ほんとこのGoogleのBloggerは写真が載せにくいです。一言添えようと思うとレイアウトが崩壊したり、、。なので追記的にこちらに書いておきます。番号は上から。

1 Clarke Quey対岸の川沿いにテーブルを出す飲食店。屋外空間の使い方がこなれていますね。

2 Clarke Queyでははこのように屋外の路上に飲食店の客席が拡がります。そして屋外ですが街路に大屋根がついており、なんとその柱から冷房が噴出すというイケイケぶりです。

3 マレーシアに行く鉄道駅。皆ホームで食事しています。これは駅舎の中にある屋台の客席がホームに拡張されたもの。

4 週末、インド人街は異様な人口密度です。ドミトリーのようなところに住む日雇い労働者達が、居る場所もないため(部屋は寝るだけ・お金も使いたくない)街中に溢れています。異様なのは、皆何もしていないこと。路上やショッピングセンターの前で友人達と立ち話しているのみなのです。日本で見る祭り時やラッシュ等の混雑具合とは質が違うのです。

5 高層タワー3基を最上階のプールでつないだ話題のホテル・カジノです。設計はモシェ・サフディ。かのアビタ67の設計者です。

6 ホーカーセンター。シンガポールは他の東南アジア諸国と異なり、路上等屋外の屋台出店は見ることができず、施設型として政府主導で整備されてきたのがホーカーセンターです。これはインド人街のTekka Centreの有名お菓子(クレープのような)屋さん前。

7 中国式の洗濯物ですが、キレイに竿取り付けの設備がついておりました。ちなみにこれはチャイナタウンにある公団住宅。

8 そんなシンガポールでは民間の新しいフードコートも進んでおり、Vivo CityにあるFood Republicという人気フードコート(何店かあります)。ここはテーマ型として、昔のチャイナタウンの街並みを模したインテリアが特徴的。視察する前は安っぽいのではないかと思っていたのですが、中国レンガ、瓦、古木等本物の材料を使用しており、非常によかったです。こうなってくると、何がオーセンティックで何が偽物かという議論に発展しそうですが、単純に手法としてアリだなという感じです。というかこれを「造られた」とかなんとか批判しちゃうとデザイナーは何もできないのでは、というくらい。商業的にも成功している模様でした。

シンガポールの写真など










2010/07/08

ソースフリーの世界

近頃、著名人・普通の人に関わらずにUstream等でのリアルタイム動画配信が盛んだったり、先日発売されたiphone4でHD動画撮影・動画編集が可能になる等、情報技術(我々が得る情報の多様化)が著しく変化していると言えます。それに伴って、論文や文章あるいは他の手段で何らかの発言・発信をする際の、何かを参照したり引用したりといった概念が変化していくのではないか、その参照元であるソースに対する扱いが変わっていくのではないか、ということを最近考えています。

これまで、映像配信等は素人ではなかなかできない分野であり、講演会・講義・演説等で引用されるべき内容のものは必ず文字に起こされてきました。そして(大抵の場合)著者校正を経て「発行」されることで「参照の対象」=ソースとなってきました。つまり「本」に代表されるように、情報の蓄積は文字である、というのが共通の前提であったわけです。「誰々が言ったように」とか「〇〇と考えられている」とか「最近は〇〇であるが」と言ったあいまいな言葉を我々は(政治家も、官僚も、新聞記者も、学者も)よく使いますが、そのソースを辿るのはかなり難しいわけです。そういった状況では、故意に嘘をつく等でなくとも、自然に事実がねじ曲げられることは往々にしてあるでしょう。そもそもこれまでに自分が得た知識を総動員して文章なりを書こうとしているときに「これはどこで学んだか思い出せないから書けない」とまでストイックにはなれないと思いますし、そういうことでもない、と。しかしどうやってそこに線を引くのかは曖昧であると言っていいでしょう。

そういった曖昧さを回避するために「学術論文」においては、ソースを明記することがルール化されているわけですが、それは審査や発行といった信頼性を付与するハードルをくぐったもののみが参照の対象となるわけであり、「遡る」ことのできる「テキスト」であることが(ほぼ)その条件であったわけです。では電子書籍や公に配布されるpdfはどうでしょう。改変可能性は否定できません。誰かの講演会で重要なことが語られた場合はどうでしょうか。例えば「村上隆研究」をしようとした場合に村上さんのやっているUstはどうでしょう。そこで本人から語られたアートに対する読解等には改変可能性は少ないですが、ソースがなくなる可能性は大きいです。Youtubeにアップされた作家のムービーは?しかしそれらがもはや無視できない存在であることは確かです。もちろん今はまだそういった変化が起こり始めているにすぎない段階ですが、しかし、その前提が変わりつつある現在、ルールそのものを改変するような仕組みを議論する必要がある時期に来ているのかもしれません。

よく日本語訳が悪いだのといったことが話題になったり、最近も例えば山形浩生訳版のジェイン・ジェイコブス『アメリカ大都市の死と生』が出たりとその「改変」が話題となる「翻訳」という行為を見ても、なにかを疑い始めたらキリがない、という状況に来ています。流石に現在(少なくとも日本では。もちろん文学その他の原文に最大の価値がある分野は除いて)原文を見なければダメ、信用できないと言う人は少ないでしょう。そこがたぶんポイントで、ソースの多様化を受け入れることで、良くも悪くも信頼より面白さ、狭く深く検証的にものごとを見るよりは、広く浅く創造的にものごとを考える方向に向かって変化するのではないでしょうか。

例えばwikipedia、これは今更説明する必要もないですが編集権を開放することで(原理としては)誰でも執筆・改訂が出来、集合知的に知識を共有していこうというものです。つまり誰でも執筆することができるため、誰しもがある特定の事項には知識を持っているという事実を利用して自生的に作成される優れた辞書である一方、誤情報や故意の偏向情報である可能性は拭いきれません。そんなわけで、当然ですが数年前まで大学の論文やレポートの引用にwikipedia等と書くのはご法度であり、笑い話にもなるようなものだったと言えます。ではそれが本当に信頼できないのかと言われれば、今ではかなり信頼できる高い精度を持っていることも事実です。それが「信頼できない」というよりは「信頼できるかどうか証明できない」という理由で、今でも正式なソースとして採用できないのは変わらないし、wikipediaに限らず多様なソースにあたるのが大前提ですが(それはTPOをわきまえて)、端からwikipediaなんてけしからんと言う先生は古いとしか言いようがないのは確かです。

(もうひとつ、編集されることが前提のためその引用元としてそのページの再現可能性の低さから参照元として成立しないという理由もあります。実際は編集履歴も残っていますし、Googleの過去検索やAppleのTimeMachine的な概念はその辺の網羅を狙っているものでもあるでしょうから、技術が改善するとは思いますが、ここではひとまず置いておきます。)

そこでは閲覧という機能の働きによって、懸念されていたよりも間違いが少なく、しかもその筋の研究者でも知らないような、かなりローカルな(マニアックな)知識まで手に入ることもあります。そして英語版のwikipediaでは写真等がsourcefreeという形で公開されているのです。例えば、「ホーチミン市」ではかなり高解像度の都市パノラマ写真が著作権フリーの状態で共有できます。古地図も同じ状況です。

これらの話題はローレンス・レッシグあたりの著作権関連の議論にも通じるところがあり、しかも僕はそれらの議論が建築分野の持つ特性と非常に親和性が高く、応用可能である、あるいは考察の必要があると思っています。それはいずれ整理して書きたいと思いますが、「ソース」の記述・情報獲得の多様性によって、「ソースは文字」の前提が崩れ、「ソース」の価値・信頼性に関する扱いが、良くも悪くも変化していくのではないか、ということです。「掲載」によらない「ソースフリー」な状況が生まれるのではないか、と考えられます。

なんとなく、仮にも研究者に近い立場の人間としてふさわしくない文章を(しかもダラダラと)書いてしまった気がしますが笑、、、あくまで可能性ということで決して極論をぶっているつもりはありません。ひとつまた自分に宿題を設定した気でこの話題、今後も考えていきたいと思っています。

2010/06/16

555 Kubiki

ビルのファサードへ映像を投影するインスタレーションで、ハンブルグのOM ウンガース設計の"Galerie der Gegenwart" の壁面をものを発見しました。驚くべきアイディアと技術という印象ですが、映像として主に古典的なボキャブラリーを使っているところがウンガースの建築と対応していて上品さを感じます。
ネタ元は http://vimeo.com/5595869


555 KUBIK | facade projection | from urbanscreen on Vimeo.

2010/05/21

中国の写真など

最近論文など忙しく、あまり別の文章を書く余裕がないため、写真でもアップしてみます。
 →と思ったのですがうまく写真が貼れないので中途半端ながら2枚のみ。後日追加します。











中国で購入したブタの人形。模様、長い足などかなり気に入っております。
















中国延安のヤオトン。塗り壁がキレイです。たいてい電気はあり。トイレは共同が多いです。



2010/04/20

歌舞伎の黒子/お決まり/静止画的

昨日、4月一杯で改修のため取り壊される歌舞伎座にて、お誘いをいただいたので歌舞伎を鑑賞してきました。なんと高校生の時ぶりです!つまり歌舞伎にはまったく疎いのですが、そのピュアな状態の素朴な発見・感想を記しておきます。

・静止画的画面構成を支える黒子
とにかく華やかな歌舞伎の舞台、座っている演技でも半座りのような「キメ」の座り方を維持するために、座りのポジションの役者さんにはすかさず黒子が椅子を持ってセットします。そうして迫力のある座りの演技(実際には空気椅子に近い)を可能にしているのと同時に、無駄な動きの一切ない画面の演出につながっているようでした。

・「お決まり」という意味論的なお約束
太鼓の音色や小道具の使い方、役者のふるまいなど、細かいディテールが各々様々な意味を持っており、ぼんぼりが出たら夜を表すとか、この音は重要な来客を表すとか、
同じように、黒子は見えないというのがお決まりのルールですが、実は黒子ではない普通の補佐の人もいるようです。どう使い分けているのか(ただ演目によってなのか)わかりませんが、黒子よりはその存在を主張しているように思えます。そして演技に関係が無いときには後ろを向いて存在しない、ということをアピールしているのです。

・フラットな照明
ライティングがほとんどなく、劇的なスポットライトなども一切使用しておりませんでした。フラットな光が舞台を一様に照らす感じ。解説での「昔はライティングなんてできなかったから」というのに納得ですが、この演出された「劇的さ」を嫌う感じ(歌舞伎は演出の極地とも言えるのですが逆に)に日本的なるものを感じました。

・急勾配の一体感
おそらく建替えの遠因にもなっている急勾配で非常に狭い客席。2F 3Fの席は花道が見えないので決してよいとは言えないのですが、とても急勾配な傾斜が逆に劇場の一体感を生んでいたように思えました。座席幅は420、前後の間隔は600くらいしかないのではないか、という現代にはそぐわない狭さですが、それも味で、とはいえどの席からも舞台だけはきちんと見えているようでした。

というように、まさに静止画のような平面構成的な舞台を堪能してきました。同時に黒子という存在(その意味論も含めて)にとても興味を持ちました。数回の鑑賞で日本性うんぬんを語るにはまだ早いですが、役者への掛け声や、拍手のタイミングなども含めて、歴史の中で定着した「日本のルール」が生んだ素晴らしい芸術だと思いました。ってちょっと大げさか笑?見た中では特に「連獅子」が話、笑い、盛り上がり共によかったです。

2010/03/13

グラフィック, メソッド, アーキテクチュア















最近あまり更新できていないことに後ろめたさを感じ、写真でも貼ってみようと思っており、なんとなくですが、とある日のノートを晒してみます。この日は何か打合せのページの途中から何故かグラフィックとメソッドとの関係を考え始め、アイディアを書き留めたものです。一コマ30秒くらい?でどんどん書いていって事後的にそれが何を意味するか、それによって何が可能かを考える、という自主トレ的な感じでしょうか。常に体を鍛えねば、と。

通常グラフィックとはなんらかのメソッドによって作成されるものと言えるでしょう。しかし私達は常に視覚によって得た情報を事後的に解釈し、それに勝手にメソッドを与えているものです。建築にはアイディアを表現するために、メソッドをグラフィック化するという作業がつきまとっているわけですが、その逆の思考を辿ることで何か導かれるものがあるのではないか、という方法論の模索です。

2010/02/22

不可視のビーチ

最近昼間は自宅で論文作業などを進めているため、月曜日の昼間からTVで映画を見るという堕落的なことを(笑)してしまったのですが、、、本日放映されていたレオナルド・ディカプリオ主演『ビーチ』が、その「水着のギャルが出るリゾート楽園ムービーで起きる事件簿」的な安い印象とは違い、なかなか興味深いテーマでした。

映画を貫くテーマは見えないものと見えるもの、可視 / 不可視 とはどういうことか。これは、映画というメディアの特性として、おそらくいろいろ扱われてきたものであるとは言えます。例えばスピルバーグが最後までジョーズの姿を観せなかったこと。未知との遭遇。ヒッチコックの恐怖の煽り方。そのような可視 / 不可視に関わらず、不可視だからこそ事柄が間接的に及ぼす心理的影響というものは、映画史に通底するひとつの手法であると言えるでしょう。以下本映画におけるそんなモチーフ(ネタバレ防止のためストーリーの順番とはバラしてます。でも順番=ストーリーは重要ではない)を挙げてみます。

・幻の楽園とよばれる(非可視化されことで神秘性が増す)ビーチ。
・かなりおかしな言動で素性がわからない謎の男。
・世界を偽ってよそ者に心地よい場所を提供するものとしての「観光」への嫌悪。
・ネットカフェで全員が個別にネット世界(=パラレルワールド)に向かう姿。
・死にそうになって苦しんでいる仲間を外のテントに隔離し、その存在と彼がいることによって思い出される悲劇を忘れるための非可視化。
・仲間を銃で撃つという悲劇が可視化(衆目のもとで)されることで崩壊するコミュニテイ。
・別世界(楽園)への象徴としてのマリファナ。
・別世界の中で別世界にはまるモチーフとしてのゲームボーイ。
・楽園の外の実世界の猥雑さを可視化したがらない仲間たち。
・都市伝説的な逸話。
・バンコクのカオサンロードという「沈没(=実社会からは認識されない世界)」の象徴。
・自分しか体験していないこと(=他の人物にとっては非可視)を都合よく語る武勇伝。
・「非可視」であることを十分認識していることによって起こってしまう事件。
・お互いバラされては困る秘密を交換することで、(簡単に可視化されてしまいそうな)非可視化の確保への執念。
・夜の月の光によってしか可視化されない神秘的なもの。

それら不可視なものは、それが事実として存在するかしないかにはまったく関わりません。可視化の有無そのものが大きな影響をもたらしているということを、いろいろなモチーフを散りばめらることで示しているようです。僕は映画の専門家ではないので史的なことは言えないし、たくさんあるであろうそういう映画の中で『ビーチ』が特に新しく、何かを成し遂げているとまでは思えません。テンポはいいですがナレーションも多く、テーマを説明しすぎ(不可視なるもの、というテーマなのに!)だったのも少しうるさく感じ、絵としても特筆すべきものはありません。なので映画として点数をつけるなら「まあまあよい」レベルに留まると思いますが、特にweb2.0以降の現代の社会において可視化 / 不可視化というキーワードは特に重要な概念で、タイムリーだと思いメモ的にとりあげてみました。

僕は建築でも、不可視化されているからこそのもの、可視化されることによること、などといった間接的に空間に与える影響のコントロールが重要だと考えております。2008年にはそうした観点で自由が丘にレストラン(+住宅)を設計しました。いずれ、「可視 / 不可視」によって空間の「情報 / 記号性」をコントロールすることで生成する「間接性 / アーキテクチャ的」としての設計行為について論にまとめてみたいな、などとも思っております。

2010/02/03

吉村靖孝さんのセルフ吉村論

「建築家の読書術」吉村靖孝さんの会を聴講して来ました。読んだ本を順に説明しながら、古谷研的思考・MVRDV的思考・その後の思考を巡るセルフ吉村論となっており、非常に明快で面白かったです。吉村さんは僕の遠い先輩、読んでいる本など(特に自分の論文でも扱おうとしている『Code』『監獄の誕生』など)かなり近く、自分の思考が遠い先輩の支配下にあることを再確認させられましたw もちろん意識的にやっている部分はありますが。

ということで、レクチャーが非常にわかりやすかったので、レクチャーの構成そのままに20の本を順に挙げます。(だいたいレクチャー通りのつもりですが、勝手な意訳もしてるかも)

まずは1994-1999に在籍していた古谷研時代の本ということで8冊。吉村さんの関わった仙台メディアテークコンペ古谷案の時の話から建築が行為を規制しないことの可能性を探りたいと、フィルタリングによって「見たいものしか見なくて済む」という社会が果たしていいのかどうか?というテーマから、不完全さを担保するためのコードを考える環境管理型の社会をいち早く提言した
ローレンス・レッシグ, 山形浩生訳『Code』翔泳社, 2001

その環境管理型の社会という概念の起源として、パノプティコン(視線の一方向性が重要)の規律訓練型権力を扱った
ミシェル・フーコー, 田村俶訳『監獄の誕生 監視と処罰』新潮社, 1977

フーコーの規律訓練型権力(監視)が社会に溶け込んでしまう可能性を示唆したものとして
ジョージ・オーウェル, 高橋和久訳『1984』早川書房, 2009
ビッグブラザーが主人公を監視するという中で、裏切られて矯正されていく主人公が最後に、(怯えて暮らしていたんだけど最終的に監視されていることを忘れて)「ビッグブラザーを愛していた」と言ってしまうということが、社会に対する批判に読めるという。

そのような世界認識の違いとして、環境と環世界(生物ごとに環境から選びとった別の視覚世界)を描いた
ユクスキュル + クリサート, 日高敏隆・羽田節子訳『生物から見た世界』岩波書店, 2005

個体間の距離など視覚だけではない、文化を左右する環境とは何か、つまり人間界における環世界的なものを扱おうとする
エドワード・ホール, 日高敏隆・佐藤信行訳『かくれた次元』みすず書房, 1970

『かくれた次元』の続きとして、文化による環世界(つまり、建築のマナー、ふるまい、といった具体的かつ行動の常識を作っていくもの達)と読める
バーナード・ルドフスキー, 多田道太郎監修, 奥野卓司訳『さあ横になって食べよう』鹿島出版会, 1999

そういった、計画しきらずにいかに計画するかという根源的なテーマを建築設計論として実行しようとする
クリストファー・アレグザンダー他, 平田翰那訳『パタンランゲージ』鹿島出版会, 1984

パタンランゲージが持つオープンソース的思想、つまりいかにユーザーと一緒にものを作るか、という問題についてなんでも放任すればいいわけではない、うまく使われるように作るとはどういうことかを論じた
エリック・スティーブン・レイモンド, 山形浩生訳『伽藍とバザール』光芒社, 1999

その実践版と読め、翻訳という行為(特に既に翻訳があるのに再度翻訳するなど)が持つ、(『伽藍とバザール』における)アップデートしたくなる感はどういう動機によるかということ等が熱く語られた
村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』文藝春秋, 2000

という前半には、いわゆるアーキテクチャ型の思想が語られました。そして後半は1999-2001のMVRDV所属時に読んだ、(MVRDV的な)都市論に寄っていく本。

架空の都市を伝聞で記述し、「都市を記述する」ことは「都市を読みこむ」ということだけではなく「都市をつくる」ことになるのではという発想に至ったきっかけの
イタロ・カルヴィーノ, 米川良夫訳『見えない都市』河出書房新社, 2003

MVRDV的都市の切り口のツールとしての統計の操作法についての
ダレル・ハフ, 高木秀玄訳『統計でウソをつく方法』講談社, 1968

その統計のウソを暴き、環境問題を特権的に主張するのではなくきちんと優先順位(とそのバランス)を重視すべきという
ビョルン・ロンボルグ, 山形浩生訳『環境危機を煽ってはいけない』文藝春秋, 2003

MVRDVが数字で都市を記述しようとしたのと同様、木を描くということが単純なルールの設定であるという記述そのもの本質を感じさせる絵本として
ブルーノ・ムナーリ, 須賀敦子訳『木を描こう』至光社, 1999

そういったものごとの記述として、プロテスタンティズム的規律型社会とも言えるオランダの都市についての記述であるとも読める
マックス・ウェーバー, 世良晃志郎訳『都市の類型学』創文社, 1965

アイソタイプ・ピクトグラムなどを使って世界を記述しようとする
展覧会カタログ『世界の表象 オットー・ノイラートの世界』武蔵野美術大学美術資料図書館, 2007

以上のような数学的な記述に関心があったということで
M・C・エッシャー, 坂根厳夫『無限を求めて』朝日新聞社, 1994

色について、認識についての斬新な記述法としての
ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン, 中村昇・瀬嶋貞徳訳『色彩について』新書館, 1997

全住宅を同スケールにて淡々と提示するという「ものさし」が建築の記述法を変える可能性として
東京大学工学部建築学科安藤忠雄研究室『ル・コルビュジエの全住宅』TOTO出版, 2001

そしてMVRDVの師匠であるレム・コールハースが審査したコンペについての特集で、何がポイントなのかよくわからない(から解釈しようと何度も読んだ)という
レム・コールハース「新建築住宅設計コンペ1992 House with No Style」(『JA No.9 1993年春号』新建築社, 1993 所収)

レムのダリについての記述と、ダリとラカンの関係(とジジュクの関係)からレムを想起させるという
スラヴォイ・ジジュク, 鈴木晶訳『斜めから見る』青土社, 1995

という感じで、吉村さん自身の出自に照らし合わせてアーキテクチャ概念からそれによる都市/建築の記述(可視化というテーマ)に至るまで、当時読んで影響を受けた本からセルフ吉村論を展開するという流れでした。

倉方俊輔さんの、「吉村さんが超合法建築でやったヘンテコなものが持っている秩序の可視化といった明快さ」と「変なものに変なものをぶつけたりと作品で見せるわかりにくさ=非一元化」という一見相反する思考がこのレクチャーで合致したという指摘もなるほど、という感じ。葉山のリノベ作品を例に、もともとある変な既存という普通に考えると有限の範囲の「文脈」に、さらに変なものを「MVRDV的明晰な論理操作」と共に付加することで、他者性を持ち込み、文脈の多元性を作り出しているのではないか、という指摘でした。

まとめは建築というものは都市の中で「可視性を増す」ことが可能であるという観点において重要なメディアと言えるのでは、ということでした。

個人的には、『Code』でレッシグが挙げている4種のコード「法」「市場」「規範」「アーキテクチャ」の中で、吉村さんが『超合法建築図鑑』で秩序の可視化(=「法」)を試み、MVRDV時代に「市場」をダイレクトに反映したような設計手法を体験し、慣習とほぼ同義の「規範」はルドフスキーや今和次郎が昔やったことだとすると、残る「アーキテクチャ」的概念について、吉村さんがどう考え、建築との関係性において何を重視しているかを聞きたかったのですが、質問時間が少なく質問できず。いつか別の機会に。

2010/01/20

わかりにくい警告サイン

自宅エレベータの脇にこんなサインを発見しました。ドアの閉まる側に、何かを警告しているものですが、、、。最初見たときはなんてわかりにくい、インターフェイスとしてはダメ極まりない!と思ったのですが、よく見るとヘンテコかつ可愛らしいイラストが書いてあるではないですか。ひとつのサインの中に絵が3種類「ドアに紐や手などを挟まないように」はわかるのですが、その挟まれた様子を内側から描いた絵もあり(なんのため笑?)犬が引っ掛かっているバージョンと何故か紐だけバージョンと。うーーーん、逆に面白い!

確かにこの「なにかを警告していることだけはわかる」サインが、ドアの脇に張ってあるため、瞬時に「手を挟まれないように」というものだなとはわかります。例えば同じところに「注意」と書いてあれば、「何に注意だよ?」というツッコミは可能である(=機能を正確には果たしていないとも言える)にしても最低限の機能は十分果たします。同じように、手を挟みやすいところにこの不思議なイラストの警告サインがあれば、その機能は果たすでしょう。ここでは中身の絵が瞬時に判別できる必要はないのです。

あるいははじめからマンションという、使用者が繰り返し使うことが意識されてデザインされているかもしれません。痛々しい指を挟むようなサイン、過激なデザインはさけ、やわらかいイラストに物語を付与したとも考えられます。エレベーターに乗っている際に暇つぶしになるように?もあるかも。グラフィック的には、サインという情報伝達の仕組みが「最低限であること」を目指してきたと言っていいですが、こんな過剰なわかりにくいものも、その文脈によっては好ましい場合もあるという好例なのではないでしょうか。

サインの機能性としての大前提である、「わかりやすいかどうか」(=機能的であるかどうか)だけを見ると不合格であると言えますが、機能性を最低限確保+毎日見るもので下手な刺激を与えない、という意味ではこんなわかりにくいサインもいいではないか、と思いました。そんな他愛もないことですが、その構造は建築に非常によく当てはまりそうですね。そんな、機能性・効率性のみを過大配点した評価軸を考え直すことも時には必要ではないか、と建築を発注する側の方に(ささやかに)訴えたい笑。配点を決めるのは機能性だけでなく、経済性だけでもなく、もちろんカッコ良さだけでもないですヨ、と。

参考図書など
ドナルド・A・ノーマン, 野島久雄訳『誰のためのデザイン』新曜社, 1990
情報デザインアソシエイツ編『情報デザイン』グラフィック社, 2002

2010/01/10

アバターの想像力

川崎IMAXシアターで話題の『アバター 3D IMAX版』を観てきました。正月休みの流れで娯楽と言えば映画を最近よく観ているので、遊びといってもできるだけそういう自分の糧になるようなものに時間を費やしていきたいと思います、という言い訳めいたことを言いながら、、、勉強、勉強と。アバターには普通の3D版とIMAX3D版があって、見比べたわけではないのでわかりませんが、現在首都圏では川崎しかないIMAX版が一番すごいらしい、ということでわざわざ川崎まで。

最近では『思想地図No.4』でも特集されていたように、人間の「想像力」がどこまで到達できるか、ということは非常に興味深い話題です。クリエイティブに属する人達にとってはそれを体験するのは仕事といってもいいくらい。僕はドラゴンクエスト派かファイナルファンタジー派かと問われればドラクエ派だと答えるのですが、ファイナルファンタジーの提示する世界観のような想像力は世界的に見ても素晴らしいものがあると思っていて、他には例えばナウシカなどの宮崎アニメ(全部ではない)、優れた漫画等、日本が世界に誇るものは「想像力」であるとさえ言えるのではないかと考えています。しかし久々に、ハリウッドの「制作費がすごいからね」とか「コンピュータ技術があるからね」といった言い訳(負け惜しみ)ができない敗北を期したと思えるくらいに圧倒されたのが、このアバターでした。

まず話題の3D映像、これは本当にすごい体験をもたらしてくれます。ディズニーランド的なびっくりするような、ついよけてしまうような3D、キワモノとしての3Dを「想像」している方はそれは過去に体験した記憶にすぎないのであって「想像」とは言えない(などと無理やり「想像力」に結びつけていますがw)のです笑。そういったびっくりのさせ方は主題ではないためわざと避けています。序盤にパターゴルフでころころ(この、ころろころというゆっくり感がポイント)ボールが手前に転がってくるシーンがありますが、そういうシーンで観客の感覚を慣らしているため、後半は本当に自然に3Dの世界に溶け込むことができます。それでいて要所要所でぐぐっと画面に惹きつけるシーンがあって、もう完璧なのではないかと。引いた絵、寄った絵、奥行き(広がり)のある風景、近景の迫力を重視した風景、動きがあって迫力がある絵、動きがなくて迫力を出す絵、等のバランスが本当に優れていて、手馴れているというか、完璧というか。

そして、地球でない惑星での話なので、舞台の背景が全てファンタジー的というかその描き方がもうすごい。出てくる生物もその動きも含めて非常に面白い(もう少し多様性を感じさせてもよかったですけど)し、植物や木や自然などの風景が3Dの迫力を活かしてホントに素晴らしい。思わずうおっと唸る「創造的」な風景描写が満載です。同時に地球人の乗り物などもなかなかなのですが、そういった世界感を体感するだけでもいろいろ刺激されます。1日でクリエイティビティが3割アップした感じです笑。単純に超リアルですし、ドラゴンボールのカプセルコーポレーションの内部(最大の賛辞)をはるかに超えた世界構築の想像力がハンパない。

と、謎にべた褒めの映像は百聞は一見にしかずですが、想像力あふれる「思想」としてぐっと来たシーンは「馬的なものに乗るときにやるあること」と「地元民達が主人公とつながる場面」。異星人(つまり人間にない能力を持つ存在)を描いてきた映画はたくさんあれど、ああいうつながりの描き方はなかったのではないか。この星の人たちは人の考えていることがわかるのです、とか人間にはない動物的な嗅覚を持っていて、、、といったのが普通よくある異星人の描かれかたであって、異星人を地球人にはない優れた特徴をもったものとしてキャラクタライズする際のよくあるパターンなわけです。しかしここでは、それこそ「新しい」異星人の描かれ方がされていると思います。

そこでされるあること(映画では他の異星の特異性と並ぶのでそれほど特殊な描かれかたはされていませんが)は、現代社会に汚染された我々が理想とする「異文化との関係性」であり、かつそれが大変現代的な発想で想像された仕組みであり、、、、、などなど、ネタバレ防止のための曖昧な表現で申し訳ないのですが、裏テーマ的なる「アバターとは何か」に対する「別のアバター性」という答えだと言えるのかもしれません。という製作者の意図とは関係ない、自分勝手な「あえての深読み」にすぎないのですのが、、、まあ、どこかのアニメかなんかでありそうなアイディアなので、映画的な新規感は実際それほどないのですが(過度に期待を煽っても仕方ないですし)この映画でそういう描き方をするということにびしっと共感した次第です。

そんなとにかくすごいアバター、映像はすごいけど話はちょっと、というレビューをいくつか見かけましたが、それほど悪くないと思います。確かに大筋はよくあるパターンでありますが、その枠組、つまり「物語の大筋が定型かつ単純であること」を責めても仕方ないですし。でもその中でも十分ハラハラさせ、盛り上げ、今日的な主題を(言葉でなく)体感として伝達するきちんとした展開になっていたように思えます。だって地球でない惑星で、異星人の文化や特殊能力、アバターという仕組み、人間と原住民の双方の歴史と狙いなどを最小限の言葉と最低限の自然なシーンによるきちんとした文脈づくりが出来ており、主題の伝達もはっきりしていて、人物も手際よく描かれており、あちらの惑星側の視点でその世界観を体感できるあたり、僕としては脚本もなかなかよい!と言い切りたいと思います。主人公の素性が明らかになるあたりなどイマイチ乗れない部分やつっこみどころがマッタク無いわけではないですけど、それは野暮かと。

とは言えリアリティ重視派としてひとつだけ(大きな)文句を言うと、地球人の描き方がバカすぎです。観客の誰もがその行為に怒りを覚えるように、地球人もあんなことを平然とやるほどバカではないのでは、という印象を持ちます。しかしその愚かさを描くことが物語上必要だったとすれば(それはそれでいいと思う)、いまどき「金に目がくらむ」的なきっかけであんなことをやらせるのではなく、例えばささいな何かのきっかけでキレてそういうことをしてしまうとか、地球人にとってこの星そのものの扱われがそもそも酷いとか、そういう人間の本質(それも現代的な)をえぐるようなシーンが必要だったのではないでしょうか。だってだれもが「戦争はいやだ」とか思っているのに戦争が起こっている現実というのは、そう単純な話でないわけだし、この映画が伝えようとしている(それこそ現代アメリカ的な)主題をより強化するものになったはず。そういう内面をきちんと描いていかないと、終盤あの女の子の「彼らの星にはきっと〇〇がないんだよ」とかということで今日得た教訓は「単純に憎むべき敵を設定する」ことこそもうやめるべきでは、と。

そんな感じで、非常にオススメです。2012とか観ている暇があればアバター2回ですね笑。テレビがカラーになった、とか初めてスターウォーズ観た、とかそういう類のブレイクスルーであることは間違いなし。

2010/01/06

母なる証明

年末に見に行ったポン・ジュノ(*うっかり勘違いを訂正しました)監督『母なる証明』、無実の罪を着せられそうになった息子(集中力障害?)を守るために真犯人を探す母の奮闘を描いた作品で、非常に緻密で丁寧なよい映画でした。公開はそろそろ終わり?かもですがDVDが出たら是非。

伏線の貼り方、映像(母が屋上に登るシーンとか、新事実のシーンとか、ラストとか)も素晴しいし、決して説明的でなく、観客に考えさせる余韻を残しつつ、でも丁寧にわかりやすく拾っている、無駄がない感じ。

ただしひとつだけどうしても、いまひとつではないか、と思うところがあったのでネタバレにならない程度に備忘録的に書きたいと思います。とはいえ、映画を観た時の自由な発想を妨げる恐れがありますので、これから観るよという方は読まないほうがいいかも。念のためネタバレ注意ということで。

まず前半で、ささいなシーンですが、息子が黒いあるものを「白だった」と間違って回想するシーンが出てきます。あくまで主人公の症状と後に友人との関係を示す自然なシーンとして。そのシーンがあった上で、終盤大事な場面で、主人公があるものを「白い」として思い出す場面があるのです。その白いものの証言により重要な事実が浮かび上がるのですが、前半のあのシーンが頭にあった僕はそれは主人公の勘違い、本当は「白」ではなかった、という展開を想像してしまうわけです。ところが普通にその「白」が事実であるということが後にわかる。

これはたまたま同じ白黒というモチーフが使われたために(考えすぎ)なのか、その時間の間だけわざと観客に誤解する時間を与えたのか、僕は後者だと思いたいのですが、、、映像とか展開を観るとわざと誤解を与えるように作られたとは思い難い(その、明らかに事実っぽいことに大ドンデン返しがあるのではと期待してしまった分拍子抜けした感があり)です。

とはいえこういう場合作者がどう考えて作ったかよりも、それをどう読むかが(少なくとも読み手にとっては)重要なわけで、「序盤のシーンは後半観客に誤解を与えるための伏線だった」としてみると、これは大変面白い映画なのだと思うのです。作品のテーマが真犯人探し(謎解き)のサスペンスをベースにした「母の愛」だとすると、そこで観客が受ける誤解によって、母へある思いを抱きながら観るわけです。「お母さん、実は〇〇に違いないですよ」と。しかし結局〇〇ではないことがわかる。それがわかった時点で観客は劇中の母と同じ、深い感情を抱くことができたはずなのです。まさにギャップ効果を発揮する最大のチャンスだったのではないでしょうか。そういった「淡い期待を抱かせて結局のところ突き落とす」という感情のモデルを成立させるためには、母がその事実を疑うシーン等が必要だったのだと思いますが、、、。

ということで☆4.0。いい映画には変りないです。韓国映画は表現は多様ですが伝えようとする主題は単純明快なことが多いですね。今のところはキム・ギドク『悪い男』『うつせみ』あたりがマイフェイバリット。

2010/01/04

NP完全問題が解けない理由

ウィリアム・パウンドストーン, 松浦俊輔訳『パラドックス大全』青土社, 2004

巡回セールスマン問題とは、「複数ある都市をセールスマンが営業で回るのに最も効率のよいルートは何か」というものを示すことで、最短ルートを近似的に想像することは出来ても理論的に(コンピュータ等で)証明するのが非常に難解で有名な問題があります。

その巡回セールスマン問題は「NP完全問題(非決定性多項式時間完全 Non Deterministic Poliminal Time Complete)」と呼ばれています。専門ではないのでよく理解できていませんが、どれほど難しいかが「充足可能性問題の計算」というNP問題の一種で示されており、それが面白い。(その筋の方にはちと古いのかもしれませんが、ここではそういう正確さは抜きにして)

充足可能性問題の例として、信じるもの(正しいと証明されたこと)のリストを作ることを考える。二つ目にリストに載る「信じるもの」は第一の「信じるもの」と矛盾しないことを確かめなければならない。その作業は1回。3つ目にリストに載る「信じるもの」は第一の「信じるもの」と第二の「信じるもの」の両方と、両者、計3回矛盾していないことを確かめなければならない。4つ目のリストに載るものは7回、5つ目は15回、6つ目は31、10つ目は1023、1000つ目は10の310乗になるそう!

それを空想上のコンピュータで計算することを考える。並列に数が多ければ多いほうがいいわけで、仮に陽子の大きさ(10の-15乗メートル)の素子を処理装置(CPUチップ見たいなもの)とするコンピュータを仮定する。すると1立方メートルで10の45乗個の素子を詰め込める。

ひとつの素子が、光の速さ÷素子の直径=3x10の-24乗で切り替わり信号を送る(=先の認証作業のひとつをこなす)と仮定すると、1秒に10の23乗の処理が出来る理論上最速のコンピュータということになる。しかし、1立方メートルで10の45乗個の素子を積んだコンピュータ計算すると、最初の1秒で225つ目までリストを作成できるが、次の226個目を認証するのにもう1秒、232番目を調べるのに1分、247番目までは1ヶ月、275番目までは3500万年!

それを宇宙誕生からこれまでの寿命10の17-18乗秒(感覚的にはこれもすごい!これだけか、というか10の18乗ってそんなに大きいのか、というか)にちょっとおまけをのせて10の19乗秒間計算するとすると、10の87乗回の計算ができるが、なんとそれでできるリストは289個にすぎない!

そこでコンピューターの数を増やすしかない。ひとつ1立方メートルなどと言わず、宇宙の大きさくらいのコンピュータを作ってみる、と(これまたすごい仮説w)。およそ120-140億光年(1光年は10の13乗キロ)と言われているそうだがとりあえず1000億光年とすると、10の126乗個の素子を積んだコンピュータが出来るらしい。

その「宇宙の大きさ」で「永遠」に計算した結果、、、10の168乗回の計算が可能で、それによって出来るリストはたったの558、、。

原著は1988年(訳書は2004年)なので当時とはコンピュータ処理的に何がしかの革新(それこそ指数関数的な)が起きているかとは思いますが、専門外の僕にとってはそもそもその正確さなどはどちらでもよくて、この思考実験の発想とスケールが面白いなと思いました。しかしNP問題が難解と言われているのは今も変わらず、というかその難解さの理由が物理的な限界であるというのが驚きです。以上正月の読書より。

2010/01/02

ワンピースと少年漫画

只今劇場公開中の『ワンピース・ストロングワールド』が空前の大ヒットらしく、劇場でもらえるという0巻につられて観にいきましたが、大変バランスのよく老若男女に受けるであろう面白い映画でした。誰が見ても一定の満足感が得られるのは間違いなく、原作者尾田栄一郎さんが全面監修だけあってクオリティもかなり高い。「独自に進化した様々な特殊巨大動物がいる島で、、」という設定からして、劇場で見るにふさわしいスケールを生んでいます。

もともとワンピースは冒険・アクションものという少年漫画の王道ですが、その多方面への気配りの射程の広さはかなりのもの。例えば主人公を取り巻くキャラクターは、キャラクター・特技・で完全にキャラクタライズされており、全員がそれぞれの役割でチームに貢献します。キャラマトリックスを作ったらすべてのマスが満遍なく埋まる感じ。能力者の主人公を囲むチームのキャラを整理すると、男気あるイケメン(剣)、プレイボーイ的なイケメン(足技)、トナカイキャラ(変身・映画ではさらに着ぐるみを被っていて笑いを誘います)、可愛い系の美少女(航海士・気象を操る)、クール系の美少女(特殊な手技)、サイボーグ(体に内蔵した様々な武器)、ガイコツ(剣)、嘘つき(遠隔攻撃)、もちろん敵キャラもかなりバリエーション豊かな展開を見せてますし。

映画でも見られますが、例えば何かを探すシーンで8人のメンバーが必ず3組くらいにバランスよく別れるのもうまい。攻撃系のキャラと特殊能力系のキャラがうまくわかれるのですが、同時にその個別チームはそれぞれ能力の欠如という弱点を持つため物語的に「負けずにやられる」ことが可能(少年漫画的には能力的に弱いというのは見せたくない)で、最終的に全員集合した時の能力補完による充実感の演出につながります。

ということで、ワンピースの漫画としての特徴を考えてみました。

・徹底したチーム戦による能力補完主義(特技を生かした能力バトル)
友情がキーワードであり、ドラゴンボール型の不可避なインフレバトルに陥らない。もちろんインフレ的に敵の強さはエスカレートしていくのだが、さらに強そうなキャラをちらちら挿入してきたり、敵ボスにも中ボス扱いの手下がいてうまく役割分担が出来ている。また腕力的に弱いキャラにも独自の特殊能力があり、一番強いキャラ(ルフィ)は腕力以外では弱点だらけであるという設定も巧み。

・物語の構造設定が生む必然性
そのような敵ボスと側近であるその手下の中ボスがセット(ほとんどボス1側近2で出てくるが)といった設定はともすれば既視感 / 無理矢理感が生まれてしまうが、そこは「海賊団同士の戦い」という設定により必然化することができており、結果的にチーム戦(=主人公強さのインフレの回避)になる。また、敵が海賊であるという設定によって敵が悪事をすることへの疑念を生まないし、海賊は土地に根ざしていないため「行く先々で敵の城に行かねば」といったクリシェを回避する(敵もあくまで通りすがりである)といった構造となる。そのように少年漫画ぽさを追求するがあまりに少年漫画にありがちな「必然性の欠如」を注意深く回避している。

・物語の定型化と形式の反復
登場人物や個々のエピソード(そのストーリーがまず面白いが)の多様性を目指しておきながら、物語に「定型」の枠組みを与えている。つまりそれぞれの話の構成が構造的にほぼ一緒である。船で新しい土地へ行くと、敵の海賊とそれらよりなんらかの被害を被っている地元の街があり(敵を倒すことの正当化)、能動的、受動的にその争いに巻き込まれていき、最終的に敵を倒すのだが、必ず犠牲者でありかつ助け合うことになるキーパーソンが存在し、、、といった具合。そういった定型の反復が共通認識を生むのではないだろうか。アイツの賞金は何万ベリーだろうか(どれくらいの強さか)、アイツの能力は何だろうか(読者は一人がひとつの能力しかもてないことを知っている)、次の島はどんな島か、、、と。度々出てくる海軍に対しても彼らの強さや態度は読者が想像上で把握することが出来ているから海軍が来ただけである種の緊張を感じたりもする。それらの反復によって結果的に少年漫画としての安心感と拡張性(やろうと思えばいくらでも話を伸ばせる)を持つ。

・常に「その先」を想像させる見えない伏線の配置
そのような定型の反復によって生み出されるのは読者の想像上の「未知の島」の存在である。定型がないと「次は何か」としか考えることができないが、反復によって「次」がある「島」であるという認識が共有される。そういった共通認識の上で、先を想像させる伏線(イーストブルーにおけるグランドラインのような)が配置され、その先には何があるか、というワクワク感を生むことに成功していると言える。また「海賊にかけられた懸賞金」という個々の能力を自然に数値化する制度と、様々な能力を持つ能力者(一人につき一つの特殊能力)がいるということ、海軍の存在などの前提条件のもと、「強そう」「謎の能力」「誰だあれ?」といった様々な「その先」を感じさせるキャラが小出しにされ、読者を煽り続けている。

・少年漫画性の担保(特定ジャンルの回避と全方位的配慮)
巧みにセクシーキャラをいれつつ、そしてそれを追いかけるサンジ他のキャラを設定しつつ、徹底的に性・恋愛を回避していくプロット。性の回避という少年漫画問題については、21世紀少年について作者の浦沢直樹は、物語に性は邪魔であるが、例えば彼らを中学生という設定にすると性を入れないとリアルでない、そういった矛盾を避けるために小学生を主人公にした、というエピソードを語っている( 『クイック・ジャパン81 漫画の底力 』 )が、ワンピースも同様、性を適度にお笑いで盛り込むことで存在を否定することなく巧みに回避する。スカッとするような勧善懲悪が(あえて)ベースになっているが当然残酷なシーンもなく、しかし友情あり、お笑いあり、冒険・バトルあり、感動ありと少年漫画性は全方位抑えられている。


といった感じでしょうか。とにかくワンピースはいろいろな要素が詰め込まれ、またそのストーリー構成の巧みさにより、誰が見ても面白く、かつ少年漫画の王道を修正しつつ実践しているものであると言えるでしょう。



そんなわけで正月から誰にむけた何のための文章かわからない、しかも妙に長文を書いてしまいました、、。勢いで書いたので読み返さずに(!)投稿しますが、ご意見などあればメールかツイッターで頂けたらと思います。とにかく『ワンピース ストロング・ワールド』はオススメです。キーとなる「あるセリフ」をもう少しヒネリたいところでしたが。

それでは今年もよろしくお願いいたします。

2010/01/01

あけましておめでとうございます

2010年、10年代の始まりです。停滞の(と一部で言われている)00年代の終わりには私たちを取り巻く環境に様々な変化があったように思えます。政治もメディアもウェブもコミュニケーションも。そんな社会の変化に建築が取り残されないように、新たな気持ちでスタートできればと思います。

昨年は後半ツイッターの盛り上がりとともに(実はそれ以前からですが)こちらの更新回数が減り、どうしようもないサイトになりつつあるのですが、心機一転こちらも週に1回以上は更新していきたいと思います。

拙いサイトではありますが、昨今は「浅く広く」の時代、浅いなりにも努力していきたいと考えておりますので、引き続きよろしくお願いいたします。