2010/07/08

ソースフリーの世界

近頃、著名人・普通の人に関わらずにUstream等でのリアルタイム動画配信が盛んだったり、先日発売されたiphone4でHD動画撮影・動画編集が可能になる等、情報技術(我々が得る情報の多様化)が著しく変化していると言えます。それに伴って、論文や文章あるいは他の手段で何らかの発言・発信をする際の、何かを参照したり引用したりといった概念が変化していくのではないか、その参照元であるソースに対する扱いが変わっていくのではないか、ということを最近考えています。

これまで、映像配信等は素人ではなかなかできない分野であり、講演会・講義・演説等で引用されるべき内容のものは必ず文字に起こされてきました。そして(大抵の場合)著者校正を経て「発行」されることで「参照の対象」=ソースとなってきました。つまり「本」に代表されるように、情報の蓄積は文字である、というのが共通の前提であったわけです。「誰々が言ったように」とか「〇〇と考えられている」とか「最近は〇〇であるが」と言ったあいまいな言葉を我々は(政治家も、官僚も、新聞記者も、学者も)よく使いますが、そのソースを辿るのはかなり難しいわけです。そういった状況では、故意に嘘をつく等でなくとも、自然に事実がねじ曲げられることは往々にしてあるでしょう。そもそもこれまでに自分が得た知識を総動員して文章なりを書こうとしているときに「これはどこで学んだか思い出せないから書けない」とまでストイックにはなれないと思いますし、そういうことでもない、と。しかしどうやってそこに線を引くのかは曖昧であると言っていいでしょう。

そういった曖昧さを回避するために「学術論文」においては、ソースを明記することがルール化されているわけですが、それは審査や発行といった信頼性を付与するハードルをくぐったもののみが参照の対象となるわけであり、「遡る」ことのできる「テキスト」であることが(ほぼ)その条件であったわけです。では電子書籍や公に配布されるpdfはどうでしょう。改変可能性は否定できません。誰かの講演会で重要なことが語られた場合はどうでしょうか。例えば「村上隆研究」をしようとした場合に村上さんのやっているUstはどうでしょう。そこで本人から語られたアートに対する読解等には改変可能性は少ないですが、ソースがなくなる可能性は大きいです。Youtubeにアップされた作家のムービーは?しかしそれらがもはや無視できない存在であることは確かです。もちろん今はまだそういった変化が起こり始めているにすぎない段階ですが、しかし、その前提が変わりつつある現在、ルールそのものを改変するような仕組みを議論する必要がある時期に来ているのかもしれません。

よく日本語訳が悪いだのといったことが話題になったり、最近も例えば山形浩生訳版のジェイン・ジェイコブス『アメリカ大都市の死と生』が出たりとその「改変」が話題となる「翻訳」という行為を見ても、なにかを疑い始めたらキリがない、という状況に来ています。流石に現在(少なくとも日本では。もちろん文学その他の原文に最大の価値がある分野は除いて)原文を見なければダメ、信用できないと言う人は少ないでしょう。そこがたぶんポイントで、ソースの多様化を受け入れることで、良くも悪くも信頼より面白さ、狭く深く検証的にものごとを見るよりは、広く浅く創造的にものごとを考える方向に向かって変化するのではないでしょうか。

例えばwikipedia、これは今更説明する必要もないですが編集権を開放することで(原理としては)誰でも執筆・改訂が出来、集合知的に知識を共有していこうというものです。つまり誰でも執筆することができるため、誰しもがある特定の事項には知識を持っているという事実を利用して自生的に作成される優れた辞書である一方、誤情報や故意の偏向情報である可能性は拭いきれません。そんなわけで、当然ですが数年前まで大学の論文やレポートの引用にwikipedia等と書くのはご法度であり、笑い話にもなるようなものだったと言えます。ではそれが本当に信頼できないのかと言われれば、今ではかなり信頼できる高い精度を持っていることも事実です。それが「信頼できない」というよりは「信頼できるかどうか証明できない」という理由で、今でも正式なソースとして採用できないのは変わらないし、wikipediaに限らず多様なソースにあたるのが大前提ですが(それはTPOをわきまえて)、端からwikipediaなんてけしからんと言う先生は古いとしか言いようがないのは確かです。

(もうひとつ、編集されることが前提のためその引用元としてそのページの再現可能性の低さから参照元として成立しないという理由もあります。実際は編集履歴も残っていますし、Googleの過去検索やAppleのTimeMachine的な概念はその辺の網羅を狙っているものでもあるでしょうから、技術が改善するとは思いますが、ここではひとまず置いておきます。)

そこでは閲覧という機能の働きによって、懸念されていたよりも間違いが少なく、しかもその筋の研究者でも知らないような、かなりローカルな(マニアックな)知識まで手に入ることもあります。そして英語版のwikipediaでは写真等がsourcefreeという形で公開されているのです。例えば、「ホーチミン市」ではかなり高解像度の都市パノラマ写真が著作権フリーの状態で共有できます。古地図も同じ状況です。

これらの話題はローレンス・レッシグあたりの著作権関連の議論にも通じるところがあり、しかも僕はそれらの議論が建築分野の持つ特性と非常に親和性が高く、応用可能である、あるいは考察の必要があると思っています。それはいずれ整理して書きたいと思いますが、「ソース」の記述・情報獲得の多様性によって、「ソースは文字」の前提が崩れ、「ソース」の価値・信頼性に関する扱いが、良くも悪くも変化していくのではないか、ということです。「掲載」によらない「ソースフリー」な状況が生まれるのではないか、と考えられます。

なんとなく、仮にも研究者に近い立場の人間としてふさわしくない文章を(しかもダラダラと)書いてしまった気がしますが笑、、、あくまで可能性ということで決して極論をぶっているつもりはありません。ひとつまた自分に宿題を設定した気でこの話題、今後も考えていきたいと思っています。