2009/06/30

ヒップホップの社会的価値

S・クレイグ・ワトキンス, 菊池淳子訳『ヒップホップはアメリカを変えたか? もうひとつのカルチュラルスタディーズ』フィルムアート社, 2008

本書はアメリカにおいて、ヒップホップムーブメントが社会にどういう役割を果たしたかを分析しており、前半はヒップホップの歴史。ランキングの集計の仕方の変化がシーンに大きな影響を与えていたりしたことなどを明らかにしたりと、ただ「知っている人は知っている」事実の羅列だけでなく、ディテールもしっかりしており読み応えはあった。後半はヒップホップと政治や社会との関わりを中心に描いている。ポイントは社会に対しても文化に対しても「既存」のものへのカウンターカルチャーとして発達してきたヒップホップが、いかに社会にコミットするようになってきたのか、実際のところどれほど影響を与えているのかという点。

ヒップホップという文化ではそもそも地域に密着しているものとしての意識が強く、自分がどこの出身であるか、どこに住んでいるか、といった個人の背景 / アイデンティティが重要視される地域主義的な側面が強い。同時にアメリカ社会の貧困問題とも密接な関係をもつ文化であるため、貧しく危険なストリートこそがリアルである、というイメージの植え付け、保守的な文化や既存の体制への抵抗ムーブメントであるというイメージが先行してきた。結果としてそういったイメージを持つものに商業価値が付随するようになったが、そのような、ハードコア / ギャングスタ / ストリート / ゲットーといったスタイルは、実は企業がヒップホップを「売る」ために定着させたイメージにすぎないという。もちろん一部は本物であり、特に地域密着という概念が強いために全く偽のイメージだけで売れるほど甘くはないはずだが、売る方も買う方も皆がそのイメージに引き寄せられていたことは間違いない。これが、本書がヒップホップを題材とし、カルチュラルスタディーズであるとする主張の根幹である。社会を変えたことは間違いないが、それが悪い方向に向いている(文化を享受する若者の悪役信仰を煽るという意味で)ことを批判する大人によって作り出されている、という矛盾をはらんでいるという。

少しヒップホップとは離れる(本書は「ヒップホップ」と「若者」の関係を少し混同、というかすり替えている感がある)が、カリフォルニアでは2000年3月に有権者の62%の賛成によって「提案21」と呼ばれる青少年犯罪の厳罰化が始まった。このことがもたらす二次的社会問題、これに対する活動家の主張が面白い。厳罰化により服役囚の数が激増し、刑務所や厚生施設を拡大・増設するために設備費・人件費が膨大なものとなるという問題があり、そしてそのような刑務所関係の予算を増やしたがために削減された教育費によって、貧困層の若者が「必然的に刑務所行きになる」という現状を生んでいるという指摘である。しかし実は、90年後半、青少年の犯罪は減少傾向にあり、犯罪率は下がっていたのに、犯罪の低年齢化・凶悪化というメディアのイメージが先行してしまい、高まる世論を利用した立法だった(政治家ピート・ウィルソンの個人的な野望であった)という事実があった。法・政治・世論などはイメージ / 雰囲気に支配されてしまうということを改めて認識させる事例であった。

というようなことに対して、カリフォルニアでは反政治的コンサートの開催や、有名なヒップホップアーティストの集合による、彼らなりのやり方の抗議集会などが繰り返されている。そのような状況は、よくも悪くも若者 / ヒップホップが政治にコミットしていると言えるし、社会に影響を及ぼしているのは確かであるようだ。しかし本書で述べられているのはここまでで、タイトル通り、変えたのか?戦えたのか?といった疑問の投げかけで終わっているところが少々物足りない。ただ盲目的に、社会を変えているのだ!と主張するだけの文章を避けているのは正しいと思われるが、社会に対して発言したりアクションを起こすというのは、ヒップホップに限らずにしばしば行われるムーブメントであって、それをもって社会との関係性を語るには少し弱いように思われる。その点で、「若者」というキーワードを「ヒップホップ」という現代的カルチャーに置き換えただけという部分は否めない。音楽を中心に若者の「文化」を変えたのは間違いないが。政治運動との関係性というある種既知の事実よりも、グラフティと都市景観の問題、ブロックパーティ(屋外のクラブイベント)等の場所性から見る都市の公共空間、ファッションや映画などの先攻分野におけるヒップホップの影響、などを具体的に明らかにしてくれたほうが多角的な視点を与えるという意味では意義があったかもしれない。

こういったいわゆるサブカル / 下位文化を扱うことは、1980年代のブームであったとされがちだが、この感覚はおそらく今の世代には共感されない。僕もこの世界に半分くらい足を突っ込んでいるが、文化はどんどん変容しているし、ただのカウンターとしてのサブ / 下位という枠組みで捉えきれなくなっていることを事実として実感しているからである。社会とも絡んできているし、社会も変化する中で、ただの趣味・娯楽の問題ではなくなっている。さらに「下位」の中にも主流や亜流やカウンターなどが混在しており、メインカルチャーからの流入には極端に敏感だったり、ひとくくりに出来ない複雑性を持っているし、どちらかといえば現代は「メインって何?」というのが時代の空気であるとも言えよう。より複雑化した現代において、人が何故メインから逸脱し、カウンター / サブ / 下位を欲するのか(逸脱の中にさらに逸脱も起こる)ということは、文化の逸脱論として改めて研究の対象になるのではと思っている。