2011/03/09

東京建築コレクション

先週土曜日、東京建築コレクションの公開講評会を覗いてきました。展示だけみてすぐ帰ろうかと思っていましたが、ちょっと講評会が面白かったのでついずっと。午前プレゼンがあり午後はそれぞれの作品に対して「講評」を行う場という設定。

結果としてなんですが、今年のものは審査員の構成バランスが非常によかったです。ものすごい正統派な大野秀敏さん、社会性を重視(私的な論理を批判)の山本理顕さん、正しくも信念を曲げない山本さんの独壇場を許さない役割として対抗馬の長谷川逸子さん、アイディアマンらしい変わった視点を投げかける手塚貴晴さん、私的な論理を批判しつつもかっこ良い悪いのデザインに動物的に反応する伊東豊雄さん、修士設計として地味だけどきちんとしているものも拾うべきだという六鹿さんにまとめ上手の古谷誠章さん。

建築家の考えるべき社会性とは何かという議論、均質な空間にいると身体まで均質になるという空間追求の原点、日本の最低レベルの都市デザインに対しての課題の投げかけ、近年の建築家のインスタレーション急増を受けての建築家をていのよいアーティストとして扱いつつあるギャラリーとの関係性に示された強い危惧等。全国の大学院の修士設計にふさわしいものという議論として様々な課題が出た会。というよりTKCが5年目に入りその修士設計に求められる基準が整理されてきた感があります。これは極端に言えば日本の建築家としてどうあるべきかという方向性を社会に対して提示するもの。そこに修士設計と卒業設計の違いがあるのだという感じでしょうか。近年多く行われている卒業設計展でもここ5~10年話題になっているように、私的な論理で作られるものが多いのは確か。それらは往々にして個人的な感覚からスタートするものの、外的要因を外して「見たことないもの」を設計しようとするわけですが(そのためにわざと外的要因を外して私性を武器にする、というのも私性の流行りにのった後発的な傾向)、やはり修士レベルでは私的な論理ではなく社会性・プロジェクトの意義・建築学的な位置づけが必要であるというのは明らかなんだと思います。

そこまではよくある議論ですが今回は、その社会性というのはどういうものか、それは建築の発展において・建築家の仕事としてどれくらいの重要な位置づけなのかという議論がされたのがよかったです。当然簡単に答えは出ないわけですが、山本さんのように建築家としての前提であるとするのも、大野さんのように実務では施主がいて社会性は予めプリセットされているわけだからテーマを自分で決める修士設計において社会派テーマを選んだから社会性があると評価するのは少し違うというのにも納得。僕は、プロジェクトが一見社会と関係ない例えば形の論理等であっても、それが建築学のフィールドになんらかの寄与をするもの(設計手法に対して、とか)であれば十分社会的であると言うことができると思います。逆に言うと、そのような建築学に対する何がしかを持っているか否かが修士設計に求められるものでは、と。私的な論理で建築作ってこれいいでしょというのは問題外として、社会性ある(と言われる)テーマを扱ったからといってもそれだけでは修士設計としては不十分、提案の投げかけのみではない何がしかの「検証」や「意義の提示」があってしかるべきかと思います。その意味では手塚さんが最後に指摘したように、インスタレーションに近く提案の投げかけに終わっているグランプリ案には(新しいものを作ってはいたけど)若干反対です。

個人的には伊東さんも推していた「109カテドラル」がよかったです。それがNPOなんたらだと知ったときは?でしたが、カテドラルという祝祭性を伴った非日常の公共空間(という扱いだったような)を109という場所に求めるもの、建築も面白かったし(特に六角形の開口の変形で全体が構成されているのが、局所的な課題を解決しながら統一をもたらすという意味でよかった)、GLのデザインはよくわからなかったものの広いレベルで都市との関係を持っていたように思えました。それこそ一番卒業設計っぽい作品でしたが。

2011/03/05

公共空間の使われ方














明治通りの早稲田大学西早稲田キャンパス近くの風景です。いろいろ事情はわかりますが「これはヒドイ」レベル。なんでこんなことになってしまったのでしょうか。

ここ数年で明治通りの拡幅工事が一気に進み、これまで暫定的にあった低層部分が撤去されてきました。(道路の拡幅工事等は決定されてから皆の合意をとったりと、実際拡幅するまでに何十年も時間がかかるものなので、壊すことを前提として暫定的にものを建てることができます。それがここ数年で一気に撤去工事が始まっていたわけです。例えばコンビニの拡幅部分を壊して店舗を小さくしたり。)そうして出来た拡幅部分なのですが、通行人の侵入をいやがったとしても正しい公共空間の使われ方とは言い難いですね。

ついでに言うと日本では総合設計制度として誰でも使えるという建前の「公開空地」をつくると建築の容積を増やしてよいという制度がありますが、それによって出来た空地は寂しい限りです。ある「法」では都市に空地を作るという方向性を打ち出しているのに関わらず、それを積極的に利用したりいいものにするということを制限する別の「法」の存在故です。そもそも(少なくとも近年の)日本では「公共空間」はみんなのものであって「個人では自由に使えない」という意識が強いため、公共空間を有効に活用することは苦手と言っていいかもしれません。公共だからみんな使ってよいのですよ、というほうが自由な都市となるはずですが。

我々建築や都市をデザインする立場としては、強制的に(トップダウン的に)それはダメ、アレをしなさい、等と言っても仕方ありません。あるいはなんとかこじつけて、法でそのような類の行為に制約を課すことも自由な社会とは言えません。ごく自然にこの写真のような事態にならないような、自発的に行為を誘導するような方策が必要なのです。デザインとは見た目だけの問題ではもちろんなく、様々な社会問題や社会制度と関連しているのですが、それらを目に見える(体感できる)形で統合するのがデザインの役割であるわけで、所有者にも使用者にもただの通行人にも「嬉しい」状況をどう誘導できるかということを実践として試みていきたいなと思っております。

2011/03/01

写真の複数性

前回の投稿で中国の送電線の写真を載せた時に書こうとして忘れていたのですが、この1年ほど論文をまとめる中で、似たような写真を複数提示する意味というものを考えていました。我々は何かを伝えようとする時、どの表現が一番ふさわしいか、どのアングルを選ぶべきか、どの写真が一番いいか、等とつい情報を整理しがちです。それはもちろん正しいことであり、一種の職業病かもしれないのですが、同じような写真を複数提示することで見えてくるものは確実にあると思うのです。それは単純に言えば客観性。一枚の写真を提示して「〇〇でした」とするより、同じような状況を写した複数の写真があるほうが証拠としての客観性は高いわけです。あるいは注意深く並べられた違う環境の写真(なんだけどどこか似ている)によって、それらが潜在的に持つ構造を顕在化することができる場合もあるでしょう。そのように1枚の写真とその説明というセットでは表すことができない何かが「多数性」には潜んでいます。

それは特に写真というメディアが現象をそのまま写しとるものであることにも関連すると思います。それは1枚であれば湾岸戦争時の「オイルまみれの鳥」(関係ない別のオイル流出事故時の写真)が一面に出てイメージを形成してしまうということが起こり得る、非常に強力なメディアだからなおさらです。それが複数になれば証拠としての価値は一気に高まるのは明らかでしょう。

しかし、そもそも学術論文のような場で写真というのは普通は参考程度にしか扱われません。それは現象の観察において、何らかのデータを数値的にとること、写真に見られる状況を別の図版として記録すること等の2次的な「加工」のほうが重視されるためだからです。なのですが、都市の空間における現象を扱うような計画系の論文としては、そのように難しくそれらしく提示されるデータよりも、写真の写しとるものそのもののほうが重要なのではないだろうか、というジレンマを感じていました。現象の背後にあるメカニズムを顕在化させることが研究の目的のひとつだとすると、それはやはりその現象に表出されている、つまり写真でかすかに捉えられるべきものだと考えていたわけです。とは言えさすがに写真ばかりだとバカっぽさがあり、、、それをどう客観的に提示するか、と考えた末(というほど大げさなものではありませんが)似たような写真を複数枚提示することにしたのです。それらによって写真が事実を語るような構成、あるいはその編集が現象の構造を浮かび上がらせるような構成にできないかと。結果としてさらに写真が倍増してバカっぽさは増したわけなのですが(笑)、、、それなりに編集の意図は伝わる構成にはなったはずです。

それはそうと建築分野においてものすごく大雑把ではありますが、日本人建築家はプロジェクトのメインパース等の絵を厳選する傾向にあり、海外の建築家は似たようなアングルを変えたレンダリングを複数提示することが多いと言っていいでしょう。一枚の勝負絵で建築家の「意図」を伝えようとする日本のそれに比べ、似たような外観パースを並べて「建築のデザイン」そのものを表現しようとするという意識の違いが浮き出てきているのかもしれません。