2009/08/10

責任の外部転嫁による「いわれのない攻撃に耐えるヒーロー」という内戦ソリューションの確立

アメリカより帰国しました。復習しておこうと読んだ、内田樹『街場のアメリカ論』(2005、NTT出版)、ここ最近世間を賑わしている覚せい剤事件にも若干関連(内容自体は関係ないが)するような章があった。

訴訟社会に関する項で、日本が最近導入した裁判員制度(本書は2005年だからそれが決定した頃の文章)の最大の意義(と説明されることが多い)である「アメリカを初め欧米諸国がやっているから」ということの危うさを、陪審員制度の問題点をあげながら指摘しているのだが、それをアメリカの持つ病理の指摘にまで展開するところが面白い。

まずアメリカの弁護士ドラマ『アリーマイラブ』を例にあげ、「陪審員制度というものが要請されたのは、市民の生活実感に照らして納得のゆく評決が「よい評決」であるというアメリカの法意識が存在するから」「どの陪審員にも受け入れられる等身大でシンプルな物語スキーム(ここでは愛と金)で人事をめぐる様々な出来事が説明されてゆく」ことからアメリカにおける「市民参加型」陪審員制度の問題点を指摘する。

また、裁判映画の古典シドニー・ルメット『十二人の怒れる男』(アメリカ、1957)は、初め11人が有罪を主張するが、主役のヘンリー・フォンダのみが無罪を主張して逆転、という映画。彼の忍耐強い説得によって適当に有罪にまとまりかけていた結論をひっくりかえすのだが、内田は、そのヒーローがいなかった場合に有罪になっていた可能性の恐ろしさととその確率の高さ、その逆転劇すらも、他の陪審員達が「やっぱり有罪」というなら自分も有罪でいいや、という適当さの存在のもとに成り立っているのではという恐ろしさ、さらに「自分の価値観に微塵の疑いも抱かないようなイデオロギー的確信を持った人間(主役のヒーロー)がひとりいると、周囲の人はどうしてもその確信の強さに引きずられる」傾向を指摘する。

これらの抱える問題はO・J・シンプソン裁判、マイケル・ジャクソン裁判など実際の事例でも同様であるし、多量に存在する弁護士達の巧みな説得・リードによって陪審員達がコントロールされることが多いのは明らかなわけである。内田はそういったアメリカの、弁護士や訴訟事例なども含めた裁判制度への信頼性を問題視しているのだが、それをアメリカ的なるもの、「内戦ソリューション」の適応であると議論を展開していく。

トマス・サスを引いて「現代では盗人は『クレプトマニア』(窃盗癖患者)であって、本人は窃盗の行為に責任を取らなくてよい。彼はただ彼の与り知らないどうにも統御できない欲動に外部から衡き動かされたにすぎないのである。」「放火犯は『ピロマニア』(放火癖患者)である。同じことは強姦魔にも、賭博狂にも、、、」と、「犯罪者が精神病を理由に免責を求めるアメリカの風潮を厳しく批判し」「個人の自由意志を否定し、すべてを個人の外部にある『病因』に帰することで、社会を『非人称化』しようとしている」とし、このような避け難い他者からの攻撃を「構造的な矛盾」ととらえることがアメリカの危機管理の基本であるとする。

そのように、身に起きるさまざまのトラブルについて自らの責任を反省するよりも前に、まず加害者を探し出して、「いわれのない攻撃を受ける被害者」となろうとするアメリカの「他責的なマナー」が、失敗から学習するという習慣の欠如を生むのだという。このような「社会矛盾を弥縫して、解決を先延ばしにするためにはもっともよく用いられる」のが「内戦ソリューション」であり、このようなアメリカ化(そう振る舞うことが正しいという歪んだ思想の浸透)が進むことでモンスターペアレンツの問題などが増加しているという日本の現状の説明にまで発展させているのが面白かった。

2009/08/09

サンフランシスコの朝市とWal Martから見る自由主義と均質化

サンフランシスコのシヴィックセンター近くで朝市を見た。今回の旅で他に意識的にマーケットを見る事は少なかったのであまりいい加減な事は言えないが、良くも悪くも非常にリベラルな、自由主義を感じた。朝市に並ぶ野菜の荷台が大きく、ひとつの野菜(商品)の占める面積の割合が明らかに多いのだ。アジアなどでよく見られるのは、多様な種類を混ぜて、鮮やかにディスプレイすることが多い。それに比べてここでは、まるで卸専門の市場のように、ひとつのものを大量に陳列している店がほとんどだった。人々はそれらの野菜達を自分で「自由に」選んでおり、穿った見方をすればそのように「自由に」選べる権利を主張しているかのように思えた。

食料品から日用品など生活に必要なものがすべてそろう巨大なWal Martにも何度か行く機会があった。アメリカではコンビニか、Wal Martか、くらいしか日用品を買う選択肢がなく、週に一度か2週に一度、車で乗り込んで大量に買い付けをするのが一般的だそう。スーパーとドンキが合体して巨大な倉庫の中に入ったようなもの。ここにくればなんでも揃うから何を選択するも自由ですよ、という環境を与えられているようで、これも安直な印象ではあるが、とてもアメリカっぽい。

消費行動においてできるだけ消費者に選択の自由を与えるべしという、資本主義の原則のようなことを行っているようで、その実はかなり均質化しているように思える。どこに行っても同じなのもあるが、店が消費者の自由な選択を可能にするために「なるべく多種のものを大量に並列に並べる」という仕組みの元、販売の意思を放棄しているように見えるからである。今日は○○がたくさんとれたから大量に安く、とか夏に合わせてビール特売を、とか○○が賞味期限間際だから割引、などといったことをせず(しているのかもしれないが、数店覗いた限りではほとんど感じられなかった)に、すべて並列に大量にならんでいるのである。

日本の本屋で各店が競ってポップを掲示するようなことがかなり特殊なことだとどこかで読んだ覚えがあるが、いかに差別化を図るかに苦心するような我々からすれば、ただなんでも与えられるようなやり方が自由だとは思えない。資本主義の根幹は差異の形成であり、消費者に自由を与えることではない(自由な市場は前提であるが)のではないだろうか。他にも日本で言う大店法規制にまつわる問題(いわゆる郊外型大型店舗の出店による地元商店街等の衰退)のようなものはなかったのだろうか、などといろいろ好奇心はわいてくる。

もちろん、一度にものを大量に買うというアメリカ的生活習慣もこういった文化の定着の要因としてあるだろうし、そもそもそういったアメリカ的なものを否定する気はまったくない。それはそれで非常に面白いし、アメリカ的なものを実感として分析するのも今回の目的のひとつではある。ただどこも同じってのだけが、ちょっとなぁ、、と。

2009/08/02

街としてのゲッティセンター

数日前からアメリカ西海岸に来ています。今日はゲッティセンター(リチャード・マイヤー設計)を見学しました。リチャード・マイヤーの集大成と言われる作品であり、石油王ゲッティの膨大なコレクションを、ロサンゼルスを一望できる広大な丘一帯に展示した巨大美術館。

まず、車でハイウェイからアクセスしようと走っていると、EXITの標識に「GETTIE CENTER」と出るのに驚いた。その丘には他に何もないこともあるが、「街」と同レベルの扱いとなっている(google社も道に「google」の標識があったが、ハイウェイの標識とは、、)ほどの存在感で、門を入ると地下7層の駐車場がある。そこで車を停め、エレベーターで地上(表示には「パーキングレベル1-7」と「トラムレベル」しかないのがよい。下手に「2F トラム」とか書かれていない )に上がるとトラムで丘の上の美術館まで10分弱。このアクセス方法は、丘の上に巨大美術館があるということを嫌でも意識するため、悪く言えば「権力の誇示」であるが、よく言えば美術館が置かれた「文脈の俯瞰視の提示」である。単純に気分は盛り上がるので、アミューズメントとしては正しく機能していた。

もう一つ驚いたのが、完全に無料(駐車場は15ドルとやや高だが)であって、現在でもかなりの来館者があること。子供から老人、外国人までかなりいろんな種類の人がいたが、まるで公園に来るように、賑わっている。展示は割と古典的なものが多い。人は展示室内部にももちろん多いが、その外の中庭や広場(多種の広場が設計されている)に人が多い。これだけのコレクションを無料で開放することもすごいが、丘の上(ロス中心部から30分程度だが周りには何もなし)の美術館にこれだけ人が集まるという文化的底力を感じざるを得ない。本当に、丘の街というような存在で、市民や観光客が休日に一日かけて遊びに訪れるような場所になっていた。

建築としては集大成とは言え、既知のボキャブラリーで作られているため、空間構成は気持ちがよいが新鮮な感じはしない。上質なリゾートといった感じ。ただ、すべての建築の壁や床や中庭も含めて、800角の白いパネルと、削り出しのトラバーチン、磨かれたトラバーチン(に加えて4割の200角のトラバーチンを細部にあしらう)といった同じ寸法体系でつくりながら素材を変えていくという手法はよかったと思う。マイヤーは丸などの幾何学も入れたり環境に合わせて軸を振ったりしているけど、現代的なアプローチとしてはそのことに集中できるように余計なこと、主題をぼかすことはなるべくしないだろう。そもそもゲッティセンターの設計のこの操作を主題と読んでいるのも意識的な誤読である。でもそのようなコンセプト偏重にしたときに、このような「リゾート」的な、誰もが心地よいと感じる豊かさが出せるかどうかは難しい。