2009/06/29

客観的かつ主観的な映像表現

ガス・ヴァン・サント『エレファント』アメリカ, 2003

1999年のコロンバイン高校銃乱射事件を映画化したもので、乱射事件が起こる当日の学校の様子を描いた映画。数人の登場人物(大人以外すべて素人でセリフもすべてアドリブ)の一日の行動をそれぞれ長まわしのカメラワークで追う群像劇タイプだが、画面の中心に歩く人物を置きながら、被写界深度を変化させることで極度に周囲をぼかす映像が斬新な「視線」に関する映画であると言える。人物を追っている時は、ほとんど周りがぼけているため他の環境表現は捨象される。着ている服の色や、繰り返される(時間的には何度も繰り返される)たわいもない会話などでかすかに判別できるようになっている程度だ。

また、登場人物に重み付けをせずに一人ずつ章立てになっている形式で、実行犯ですら同様に描いているため、主人公はいない。つまり多くの登場人物を客観的に、誰かに過度に感情移入させることを避けるように描いているのだが、その客観性(前章でたわいない話をしていた女子の横を通りすぎるだけ、とか)と極度に主観的な映像を組み合わせていることが面白い。「客観的、かつ個人に没入可能な主観性を併せ持つ」といった感じだろうか。ずっと一人の動きを追っているところにふっと入ってくる他者(別の章の登場人物である)が、実にドキッとさせる。関係を持った友人とすれ違うときにはその友人も急にフォーカスされ、前章に出て来た人物でも関係性が希薄だとぼやけたまま(存在を一瞬感じる程度)で何事もなかったかのように進んで行く。そういった視線の交錯が見事にリアルで、現実の感覚を持っていながら現実では体験できない緊張感を生んでいるのである。

「アクソメ的」を多視点かつ説明的、「パース的」を一視点かつ体験的とするならば、言うまでもなく本作品は両者を交互に、自在に使い分けていると言える。この、短時間の、客観的かつ一瞬で個をとらえる映像表現は、実在の事件を題材にしたというすでにストーリーバレが明らかな映画(ほとんどの観客は俯瞰的=アクソメ的にものを見てしまう)において、非常に有効に思われた。事件を上から俯瞰的に描くだけでも、人物にフォーカスしてその凄惨さを体感させるだけでも、映画としてはいまいちだっただろう。特に大きな動機もなく犯行を犯したと言われている実行犯の少年とそれを生んだ社会、という事件の枠組みは、「人が違えば考えも違う」的な、一歩引いた客観的な態度と、「そうはいっても社会とは関係なく個人は生きている」的な、極度な主観性のどちらも無視して捉えることはできないはずだ。それらを「視線」の交錯という概念でうまく捉えたことがカンヌ映画祭などで評価(パルムドールと監督賞)されたのだろうし、パース的 / アクソメ的といった「視線の問題」を考える上で重要な視座を与えてくれている。