2009/06/27

手法論の現在性

磯崎新『手法が』美術出版社, 1979

磯崎新の初期三部作として『空間へ』『建築の解体』と並ぶ本書、『建築の解体』 は今なお(今だからこそ)褪せることない斬新な概念を提示(紹介)している名著であるが、『手法が』は<手法>というものを焦点に論を扱っていることに時 代を感じざるを得ない。当時においてもおそらく「あえて感」はあったのだろう。しかし手法という誰でも使用するものを言語として顕在化し、自分の主張に引き寄せ るという磯崎の(それこそ)手法が「あえて手法を論ずる」ことであり、そうしたメタ的な概念操作は非常に高度であると感じる。

本書の手法 論の初出は1972年。1970年代というのは「近代建築への批判」、「反近代建築的なもの」が一段落して熱が冷めた時代であると言える(60年代の構想 の実現が難しかったことも無関係ではないだろう)が、1972年に『ラスヴェガス』(邦訳は1978年)、1978年に『錯乱のニューヨーク』といったよ うに、「建築への反抗」が「建築自体の失効」に変化していった。60年代的なものをまとめた『建築の解体』 (発行は1975年)、それに対して設計での解答を示そうというのが本書であると理解できる。建築が解体されつつある時に、その<手法>をあらためて取り 上げておきながら、しかしそれこそがプロの建築家による設計を「手法」というツール化することで解放させる、解体そのものであった。「かくして、<手法> は、空間内に混成系を成立させるためにうみだされるのだが、それは、対象に応じていくつも開発されていい。個人の手の痕跡をひたすら求めようとするのは、 必ずしも手法にはなりえない」と、ツール化されることで、建築家の職能がもはや主題ではなくなることを示し、「常に選択可能で、無名化した操作の系とし て」解放する。そして「一種の自動律をもって自己運動するような方式に支えられて、はじめて手の恣意的な痕跡が消滅しはじめるのである」

恣 意的な痕跡が消滅しはじめるとどうなるのか。政治性をはらみ、記号となり、修辞(構成要素の配列に変化を加えること)へと展開していく。「デザインがデザ インだけとして論じられ」ず、「外在する論理からの評価も、建築への真実の姿をおおいかくす」ことに目もくれず、<手法>が別の意味を持ちながら、それ自 体自立するようになる。そうして「結果」としてのデザインよりもその「過程」が主題になっていく。

こういった論が現在の、プロセス重視= 受け手(施主)にやさしい建築という図式、建築界で絶えず続いている設計の恣意性について議論、あるいはアルゴリズムなどの新しい設計手法(形態決定方 法)の探索、等の流れにつながっていくのだろう。逆に言えばそのような概念の系譜を意識的に創ったのは磯崎であると言えるのかもしれない。