2009/06/28

アクソメ的思考からの逆流

坂牛卓「景観・法・建築家」(『10+1 No.43 特集 都市景観スタディ』INAX出版, 2006所収)

本論文は東京都の景観規制のひとつである「眺望の保全に関する景観誘導指針」(2006年4月に東京都が景観法の条例化にさきがけて策定した指針。当時、神宮外苑絵画館、迎賓館、国会議事堂を対象にそれらの後方の視界に入る建物についての規制)について、それがパースペクティブな観点から成立していることを指摘、ロンドンの景観規制(セント・ポール大聖堂や国会議事堂の眺望を確保するものであるが、対象物の後方だけでなく前方も規定)がアクソメ的観点の指針であることとの違いから、建築に対する視点に関しての論を展開している。東京の「誘導指針」で前方規制がないことは、ロンドンと違って「指定建物を遠景から眺め下ろすような場所がないから」らしい。坂牛は、東京都が指定したそれらの建造物が「並木によって強調されたパースペクティブなシンメトリー軸上から見るように作られたパース的建物群」であるとし、この条例がパース的視点にしか対応していないことから「景観に関わる本質的な問題」つまり視点とはパースか?(1視点か?)という問いを投げかける。1視点のパースに比べ、アクソメは多視点、視点の移動を可能にしながら時間性を内在させることがキュビズムと相同性があるとし、近代以降の建築はアクソメ的だと言う。

坂牛は「都市の中にはパース的視線によって作られた歴史的建物と、アクソメ的視線によって作られたモダニズム以降の建物が混在する。その量はロンドンのような西欧の古い都市では前者が多く」「東京では後者が多い」と指摘(それは自明のことかもしれないが、モダニズム以前 / 以降をパース / アクソメ的視点の違いという部分に着目しているのが新鮮だった)する。そしてパース的建築物の保護は歴史的観点から(パース的=前近代的としているから)妥当としながらも、「眺望指針」がアクソメ的景観へ対応できるかどうかを問う。そこから建築する際に不可避的に参照することになる隣接建物が過去のものであることと、都市計画的な大型プロジェクトの隣接建物が過去でない(一体的な開発)ということを比較しながら、アクソメ的視点が生む「<部分>の関係性」や「パラドックス化を回避するためには自己の外部に参照点を見つけること」であり、それらの伴う時間性を考えるべきといった主張に展開させるあたりはなるほどと思わせるものがあった。

現在の建築表現の主流としてパースかアクソメかと言えば、完全にパースであると言えるだろう。しかしそこで話題にされるのは視点の在処や性質の問題ではなく、リアルか、リアルでないか、であることが多い。パースは見たままを写すことから(画角がリアルかどうか、表現がリアルかどうかは関係なく)リアルなものとみなされる。それに対してアクソメは、リアルではないが構成把握のためにはわかりやすいものとして、説明的なものとして、利用される。もちろん建築表現の技術が進んでよりリアルなCG的なパースが普及し(あるいは施主が求めるようになった)たことも関係あるだろうが、雑誌やコンペのメインの絵でアクソメなどまず出てこない。つまり今の若い世代にとってみたらパースが現代で、アクソメが現代以前なのであり、近代以前のある時期(ルネサンス)にパースが「発見」されたにすぎないのだ。

そんな、パースが現在でアクソメが過去、と思っているような状況に対して、最近僕らはカウンター的に(計画学的な確信ももちろんあったのだけれど)アクソメ思考を利用しようとしていたのだが、それがカウンターでもなんでもないことを改めて感じさせられたようだ。少なくともパース的思考よりは現代的だとは思っているが、現在日本の建築界に多く見られるパース的思考の亜種として蔓延しつつあるような「雰囲気派」も、そうした観点からすればアクソメ的思考だったのかもしれない。そう考えると、世界の建築がその表現の過剰さも相まってパース的思考に逆流しているように思える中、日本の傾向をアピールする一つの武器としてアクソメ的思考がある、と言い張るべきなのだ。きっと。