2011/03/01

写真の複数性

前回の投稿で中国の送電線の写真を載せた時に書こうとして忘れていたのですが、この1年ほど論文をまとめる中で、似たような写真を複数提示する意味というものを考えていました。我々は何かを伝えようとする時、どの表現が一番ふさわしいか、どのアングルを選ぶべきか、どの写真が一番いいか、等とつい情報を整理しがちです。それはもちろん正しいことであり、一種の職業病かもしれないのですが、同じような写真を複数提示することで見えてくるものは確実にあると思うのです。それは単純に言えば客観性。一枚の写真を提示して「〇〇でした」とするより、同じような状況を写した複数の写真があるほうが証拠としての客観性は高いわけです。あるいは注意深く並べられた違う環境の写真(なんだけどどこか似ている)によって、それらが潜在的に持つ構造を顕在化することができる場合もあるでしょう。そのように1枚の写真とその説明というセットでは表すことができない何かが「多数性」には潜んでいます。

それは特に写真というメディアが現象をそのまま写しとるものであることにも関連すると思います。それは1枚であれば湾岸戦争時の「オイルまみれの鳥」(関係ない別のオイル流出事故時の写真)が一面に出てイメージを形成してしまうということが起こり得る、非常に強力なメディアだからなおさらです。それが複数になれば証拠としての価値は一気に高まるのは明らかでしょう。

しかし、そもそも学術論文のような場で写真というのは普通は参考程度にしか扱われません。それは現象の観察において、何らかのデータを数値的にとること、写真に見られる状況を別の図版として記録すること等の2次的な「加工」のほうが重視されるためだからです。なのですが、都市の空間における現象を扱うような計画系の論文としては、そのように難しくそれらしく提示されるデータよりも、写真の写しとるものそのもののほうが重要なのではないだろうか、というジレンマを感じていました。現象の背後にあるメカニズムを顕在化させることが研究の目的のひとつだとすると、それはやはりその現象に表出されている、つまり写真でかすかに捉えられるべきものだと考えていたわけです。とは言えさすがに写真ばかりだとバカっぽさがあり、、、それをどう客観的に提示するか、と考えた末(というほど大げさなものではありませんが)似たような写真を複数枚提示することにしたのです。それらによって写真が事実を語るような構成、あるいはその編集が現象の構造を浮かび上がらせるような構成にできないかと。結果としてさらに写真が倍増してバカっぽさは増したわけなのですが(笑)、、、それなりに編集の意図は伝わる構成にはなったはずです。

それはそうと建築分野においてものすごく大雑把ではありますが、日本人建築家はプロジェクトのメインパース等の絵を厳選する傾向にあり、海外の建築家は似たようなアングルを変えたレンダリングを複数提示することが多いと言っていいでしょう。一枚の勝負絵で建築家の「意図」を伝えようとする日本のそれに比べ、似たような外観パースを並べて「建築のデザイン」そのものを表現しようとするという意識の違いが浮き出てきているのかもしれません。