2009/08/09

サンフランシスコの朝市とWal Martから見る自由主義と均質化

サンフランシスコのシヴィックセンター近くで朝市を見た。今回の旅で他に意識的にマーケットを見る事は少なかったのであまりいい加減な事は言えないが、良くも悪くも非常にリベラルな、自由主義を感じた。朝市に並ぶ野菜の荷台が大きく、ひとつの野菜(商品)の占める面積の割合が明らかに多いのだ。アジアなどでよく見られるのは、多様な種類を混ぜて、鮮やかにディスプレイすることが多い。それに比べてここでは、まるで卸専門の市場のように、ひとつのものを大量に陳列している店がほとんどだった。人々はそれらの野菜達を自分で「自由に」選んでおり、穿った見方をすればそのように「自由に」選べる権利を主張しているかのように思えた。

食料品から日用品など生活に必要なものがすべてそろう巨大なWal Martにも何度か行く機会があった。アメリカではコンビニか、Wal Martか、くらいしか日用品を買う選択肢がなく、週に一度か2週に一度、車で乗り込んで大量に買い付けをするのが一般的だそう。スーパーとドンキが合体して巨大な倉庫の中に入ったようなもの。ここにくればなんでも揃うから何を選択するも自由ですよ、という環境を与えられているようで、これも安直な印象ではあるが、とてもアメリカっぽい。

消費行動においてできるだけ消費者に選択の自由を与えるべしという、資本主義の原則のようなことを行っているようで、その実はかなり均質化しているように思える。どこに行っても同じなのもあるが、店が消費者の自由な選択を可能にするために「なるべく多種のものを大量に並列に並べる」という仕組みの元、販売の意思を放棄しているように見えるからである。今日は○○がたくさんとれたから大量に安く、とか夏に合わせてビール特売を、とか○○が賞味期限間際だから割引、などといったことをせず(しているのかもしれないが、数店覗いた限りではほとんど感じられなかった)に、すべて並列に大量にならんでいるのである。

日本の本屋で各店が競ってポップを掲示するようなことがかなり特殊なことだとどこかで読んだ覚えがあるが、いかに差別化を図るかに苦心するような我々からすれば、ただなんでも与えられるようなやり方が自由だとは思えない。資本主義の根幹は差異の形成であり、消費者に自由を与えることではない(自由な市場は前提であるが)のではないだろうか。他にも日本で言う大店法規制にまつわる問題(いわゆる郊外型大型店舗の出店による地元商店街等の衰退)のようなものはなかったのだろうか、などといろいろ好奇心はわいてくる。

もちろん、一度にものを大量に買うというアメリカ的生活習慣もこういった文化の定着の要因としてあるだろうし、そもそもそういったアメリカ的なものを否定する気はまったくない。それはそれで非常に面白いし、アメリカ的なものを実感として分析するのも今回の目的のひとつではある。ただどこも同じってのだけが、ちょっとなぁ、、と。