近頃、著名人・普通の人に関わらずにUstream等でのリアルタイム動画配信が盛んだったり、先日発売されたiphone4でHD動画撮影・動画編集が可能になる等、情報技術(我々が得る情報の多様化)が著しく変化していると言えます。それに伴って、論文や文章あるいは他の手段で何らかの発言・発信をする際の、何かを参照したり引用したりといった概念が変化していくのではないか、その参照元であるソースに対する扱いが変わっていくのではないか、ということを最近考えています。
これまで、映像配信等は素人ではなかなかできない分野であり、講演会・講義・演説等で引用されるべき内容のものは必ず文字に起こされてきました。そして(大抵の場合)著者校正を経て「発行」されることで「参照の対象」=ソースとなってきました。つまり「本」に代表されるように、情報の蓄積は文字である、というのが共通の前提であったわけです。「誰々が言ったように」とか「〇〇と考えられている」とか「最近は〇〇であるが」と言ったあいまいな言葉を我々は(政治家も、官僚も、新聞記者も、学者も)よく使いますが、そのソースを辿るのはかなり難しいわけです。そういった状況では、故意に嘘をつく等でなくとも、自然に事実がねじ曲げられることは往々にしてあるでしょう。そもそもこれまでに自分が得た知識を総動員して文章なりを書こうとしているときに「これはどこで学んだか思い出せないから書けない」とまでストイックにはなれないと思いますし、そういうことでもない、と。しかしどうやってそこに線を引くのかは曖昧であると言っていいでしょう。
そういった曖昧さを回避するために「学術論文」においては、ソースを明記することがルール化されているわけですが、それは審査や発行といった信頼性を付与するハードルをくぐったもののみが参照の対象となるわけであり、「遡る」ことのできる「テキスト」であることが(ほぼ)その条件であったわけです。では電子書籍や公に配布されるpdfはどうでしょう。改変可能性は否定できません。誰かの講演会で重要なことが語られた場合はどうでしょうか。例えば「村上隆研究」をしようとした場合に村上さんのやっているUstはどうでしょう。そこで本人から語られたアートに対する読解等には改変可能性は少ないですが、ソースがなくなる可能性は大きいです。Youtubeにアップされた作家のムービーは?しかしそれらがもはや無視できない存在であることは確かです。もちろん今はまだそういった変化が起こり始めているにすぎない段階ですが、しかし、その前提が変わりつつある現在、ルールそのものを改変するような仕組みを議論する必要がある時期に来ているのかもしれません。
よく日本語訳が悪いだのといったことが話題になったり、最近も例えば山形浩生訳版のジェイン・ジェイコブス『アメリカ大都市の死と生』が出たりとその「改変」が話題となる「翻訳」という行為を見ても、なにかを疑い始めたらキリがない、という状況に来ています。流石に現在(少なくとも日本では。もちろん文学その他の原文に最大の価値がある分野は除いて)原文を見なければダメ、信用できないと言う人は少ないでしょう。そこがたぶんポイントで、ソースの多様化を受け入れることで、良くも悪くも信頼より面白さ、狭く深く検証的にものごとを見るよりは、広く浅く創造的にものごとを考える方向に向かって変化するのではないでしょうか。
例えばwikipedia、これは今更説明する必要もないですが編集権を開放することで(原理としては)誰でも執筆・改訂が出来、集合知的に知識を共有していこうというものです。つまり誰でも執筆することができるため、誰しもがある特定の事項には知識を持っているという事実を利用して自生的に作成される優れた辞書である一方、誤情報や故意の偏向情報である可能性は拭いきれません。そんなわけで、当然ですが数年前まで大学の論文やレポートの引用にwikipedia等と書くのはご法度であり、笑い話にもなるようなものだったと言えます。ではそれが本当に信頼できないのかと言われれば、今ではかなり信頼できる高い精度を持っていることも事実です。それが「信頼できない」というよりは「信頼できるかどうか証明できない」という理由で、今でも正式なソースとして採用できないのは変わらないし、wikipediaに限らず多様なソースにあたるのが大前提ですが(それはTPOをわきまえて)、端からwikipediaなんてけしからんと言う先生は古いとしか言いようがないのは確かです。
(もうひとつ、編集されることが前提のためその引用元としてそのページの再現可能性の低さから参照元として成立しないという理由もあります。実際は編集履歴も残っていますし、Googleの過去検索やAppleのTimeMachine的な概念はその辺の網羅を狙っているものでもあるでしょうから、技術が改善するとは思いますが、ここではひとまず置いておきます。)
そこでは閲覧という機能の働きによって、懸念されていたよりも間違いが少なく、しかもその筋の研究者でも知らないような、かなりローカルな(マニアックな)知識まで手に入ることもあります。そして英語版のwikipediaでは写真等がsourcefreeという形で公開されているのです。例えば、「ホーチミン市」ではかなり高解像度の都市パノラマ写真が著作権フリーの状態で共有できます。古地図も同じ状況です。
これらの話題はローレンス・レッシグあたりの著作権関連の議論にも通じるところがあり、しかも僕はそれらの議論が建築分野の持つ特性と非常に親和性が高く、応用可能である、あるいは考察の必要があると思っています。それはいずれ整理して書きたいと思いますが、「ソース」の記述・情報獲得の多様性によって、「ソースは文字」の前提が崩れ、「ソース」の価値・信頼性に関する扱いが、良くも悪くも変化していくのではないか、ということです。「掲載」によらない「ソースフリー」な状況が生まれるのではないか、と考えられます。
なんとなく、仮にも研究者に近い立場の人間としてふさわしくない文章を(しかもダラダラと)書いてしまった気がしますが笑、、、あくまで可能性ということで決して極論をぶっているつもりはありません。ひとつまた自分に宿題を設定した気でこの話題、今後も考えていきたいと思っています。
2010/07/08
2010/06/16
555 Kubiki
ビルのファサードへ映像を投影するインスタレーションで、ハンブルグのOM ウンガース設計の"Galerie der Gegenwart" の壁面をものを発見しました。驚くべきアイディアと技術という印象ですが、映像として主に古典的なボキャブラリーを使っているところがウンガースの建築と対応していて上品さを感じます。
ネタ元は http://vimeo.com/5595869
555 KUBIK | facade projection | from urbanscreen on Vimeo.
ネタ元は http://vimeo.com/5595869
555 KUBIK | facade projection | from urbanscreen on Vimeo.
2010/05/30
2010/05/21
中国の写真など
最近論文など忙しく、あまり別の文章を書く余裕がないため、写真でもアップしてみます。
→と思ったのですがうまく写真が貼れないので中途半端ながら2枚のみ。後日追加します。
中国延安のヤオトン。塗り壁がキレイです。たいてい電気はあり。トイレは共同が多いです。
→と思ったのですがうまく写真が貼れないので中途半端ながら2枚のみ。後日追加します。
中国延安のヤオトン。塗り壁がキレイです。たいてい電気はあり。トイレは共同が多いです。
2010/04/20
歌舞伎の黒子/お決まり/静止画的
昨日、4月一杯で改修のため取り壊される歌舞伎座にて、お誘いをいただいたので歌舞伎を鑑賞してきました。なんと高校生の時ぶりです!つまり歌舞伎にはまったく疎いのですが、そのピュアな状態の素朴な発見・感想を記しておきます。
・静止画的画面構成を支える黒子
とにかく華やかな歌舞伎の舞台、座っている演技でも半座りのような「キメ」の座り方を維持するために、座りのポジションの役者さんにはすかさず黒子が椅子を持ってセットします。そうして迫力のある座りの演技(実際には空気椅子に近い)を可能にしているのと同時に、無駄な動きの一切ない画面の演出につながっているようでした。
・「お決まり」という意味論的なお約束
太鼓の音色や小道具の使い方、役者のふるまいなど、細かいディテールが各々様々な意味を持っており、ぼんぼりが出たら夜を表すとか、この音は重要な来客を表すとか、
同じように、黒子は見えないというのがお決まりのルールですが、実は黒子ではない普通の補佐の人もいるようです。どう使い分けているのか(ただ演目によってなのか)わかりませんが、黒子よりはその存在を主張しているように思えます。そして演技に関係が無いときには後ろを向いて存在しない、ということをアピールしているのです。
・フラットな照明
ライティングがほとんどなく、劇的なスポットライトなども一切使用しておりませんでした。フラットな光が舞台を一様に照らす感じ。解説での「昔はライティングなんてできなかったから」というのに納得ですが、この演出された「劇的さ」を嫌う感じ(歌舞伎は演出の極地とも言えるのですが逆に)に日本的なるものを感じました。
・急勾配の一体感
おそらく建替えの遠因にもなっている急勾配で非常に狭い客席。2F 3Fの席は花道が見えないので決してよいとは言えないのですが、とても急勾配な傾斜が逆に劇場の一体感を生んでいたように思えました。座席幅は420、前後の間隔は600くらいしかないのではないか、という現代にはそぐわない狭さですが、それも味で、とはいえどの席からも舞台だけはきちんと見えているようでした。
というように、まさに静止画のような平面構成的な舞台を堪能してきました。同時に黒子という存在(その意味論も含めて)にとても興味を持ちました。数回の鑑賞で日本性うんぬんを語るにはまだ早いですが、役者への掛け声や、拍手のタイミングなども含めて、歴史の中で定着した「日本のルール」が生んだ素晴らしい芸術だと思いました。ってちょっと大げさか笑?見た中では特に「連獅子」が話、笑い、盛り上がり共によかったです。
・静止画的画面構成を支える黒子
とにかく華やかな歌舞伎の舞台、座っている演技でも半座りのような「キメ」の座り方を維持するために、座りのポジションの役者さんにはすかさず黒子が椅子を持ってセットします。そうして迫力のある座りの演技(実際には空気椅子に近い)を可能にしているのと同時に、無駄な動きの一切ない画面の演出につながっているようでした。
・「お決まり」という意味論的なお約束
太鼓の音色や小道具の使い方、役者のふるまいなど、細かいディテールが各々様々な意味を持っており、ぼんぼりが出たら夜を表すとか、この音は重要な来客を表すとか、
同じように、黒子は見えないというのがお決まりのルールですが、実は黒子ではない普通の補佐の人もいるようです。どう使い分けているのか(ただ演目によってなのか)わかりませんが、黒子よりはその存在を主張しているように思えます。そして演技に関係が無いときには後ろを向いて存在しない、ということをアピールしているのです。
・フラットな照明
ライティングがほとんどなく、劇的なスポットライトなども一切使用しておりませんでした。フラットな光が舞台を一様に照らす感じ。解説での「昔はライティングなんてできなかったから」というのに納得ですが、この演出された「劇的さ」を嫌う感じ(歌舞伎は演出の極地とも言えるのですが逆に)に日本的なるものを感じました。
・急勾配の一体感
おそらく建替えの遠因にもなっている急勾配で非常に狭い客席。2F 3Fの席は花道が見えないので決してよいとは言えないのですが、とても急勾配な傾斜が逆に劇場の一体感を生んでいたように思えました。座席幅は420、前後の間隔は600くらいしかないのではないか、という現代にはそぐわない狭さですが、それも味で、とはいえどの席からも舞台だけはきちんと見えているようでした。
というように、まさに静止画のような平面構成的な舞台を堪能してきました。同時に黒子という存在(その意味論も含めて)にとても興味を持ちました。数回の鑑賞で日本性うんぬんを語るにはまだ早いですが、役者への掛け声や、拍手のタイミングなども含めて、歴史の中で定着した「日本のルール」が生んだ素晴らしい芸術だと思いました。ってちょっと大げさか笑?見た中では特に「連獅子」が話、笑い、盛り上がり共によかったです。
ラベル:
歌舞伎
2010/03/13
グラフィック, メソッド, アーキテクチュア
最近あまり更新できていないことに後ろめたさを感じ、写真でも貼ってみようと思っており、なんとなくですが、とある日のノートを晒してみます。この日は何か打合せのページの途中から何故かグラフィックとメソッドとの関係を考え始め、アイディアを書き留めたものです。一コマ30秒くらい?でどんどん書いていって事後的にそれが何を意味するか、それによって何が可能かを考える、という自主トレ的な感じでしょうか。常に体を鍛えねば、と。
通常グラフィックとはなんらかのメソッドによって作成されるものと言えるでしょう。しかし私達は常に視覚によって得た情報を事後的に解釈し、それに勝手にメソッドを与えているものです。建築にはアイディアを表現するために、メソッドをグラフィック化するという作業がつきまとっているわけですが、その逆の思考を辿ることで何か導かれるものがあるのではないか、という方法論の模索です。
2010/02/22
不可視のビーチ
最近昼間は自宅で論文作業などを進めているため、月曜日の昼間からTVで映画を見るという堕落的なことを(笑)してしまったのですが、、、本日放映されていたレオナルド・ディカプリオ主演『ビーチ』
が、その「水着のギャルが出るリゾート楽園ムービーで起きる事件簿」的な安い印象とは違い、なかなか興味深いテーマでした。
映画を貫くテーマは見えないものと見えるもの、可視 / 不可視 とはどういうことか。これは、映画というメディアの特性として、おそらくいろいろ扱われてきたものであるとは言えます。例えばスピルバーグが最後までジョーズの姿を観せなかったこと。未知との遭遇。ヒッチコックの恐怖の煽り方。そのような可視 / 不可視に関わらず、不可視だからこそ事柄が間接的に及ぼす心理的影響というものは、映画史に通底するひとつの手法であると言えるでしょう。以下本映画におけるそんなモチーフ(ネタバレ防止のためストーリーの順番とはバラしてます。でも順番=ストーリーは重要ではない)を挙げてみます。
・幻の楽園とよばれる(非可視化されことで神秘性が増す)ビーチ。
・かなりおかしな言動で素性がわからない謎の男。
・世界を偽ってよそ者に心地よい場所を提供するものとしての「観光」への嫌悪。
・ネットカフェで全員が個別にネット世界(=パラレルワールド)に向かう姿。
・死にそうになって苦しんでいる仲間を外のテントに隔離し、その存在と彼がいることによって思い出される悲劇を忘れるための非可視化。
・仲間を銃で撃つという悲劇が可視化(衆目のもとで)されることで崩壊するコミュニテイ。
・別世界(楽園)への象徴としてのマリファナ。
・別世界の中で別世界にはまるモチーフとしてのゲームボーイ。
・楽園の外の実世界の猥雑さを可視化したがらない仲間たち。
・都市伝説的な逸話。
・バンコクのカオサンロードという「沈没(=実社会からは認識されない世界)」の象徴。
・自分しか体験していないこと(=他の人物にとっては非可視)を都合よく語る武勇伝。
・「非可視」であることを十分認識していることによって起こってしまう事件。
・お互いバラされては困る秘密を交換することで、(簡単に可視化されてしまいそうな)非可視化の確保への執念。
・夜の月の光によってしか可視化されない神秘的なもの。
それら不可視なものは、それが事実として存在するかしないかにはまったく関わりません。可視化の有無そのものが大きな影響をもたらしているということを、いろいろなモチーフを散りばめらることで示しているようです。僕は映画の専門家ではないので史的なことは言えないし、たくさんあるであろうそういう映画の中で『ビーチ』が特に新しく、何かを成し遂げているとまでは思えません。テンポはいいですがナレーションも多く、テーマを説明しすぎ(不可視なるもの、というテーマなのに!)だったのも少しうるさく感じ、絵としても特筆すべきものはありません。なので映画として点数をつけるなら「まあまあよい」レベルに留まると思いますが、特にweb2.0以降の現代の社会において可視化 / 不可視化というキーワードは特に重要な概念で、タイムリーだと思いメモ的にとりあげてみました。
僕は建築でも、不可視化されているからこそのもの、可視化されることによること、などといった間接的に空間に与える影響のコントロールが重要だと考えております。2008年にはそうした観点で自由が丘にレストラン(+住宅)を設計しました。いずれ、「可視 / 不可視」によって空間の「情報 / 記号性」をコントロールすることで生成する「間接性 / アーキテクチャ的」としての設計行為について論にまとめてみたいな、などとも思っております。
映画を貫くテーマは見えないものと見えるもの、可視 / 不可視 とはどういうことか。これは、映画というメディアの特性として、おそらくいろいろ扱われてきたものであるとは言えます。例えばスピルバーグが最後までジョーズの姿を観せなかったこと。未知との遭遇。ヒッチコックの恐怖の煽り方。そのような可視 / 不可視に関わらず、不可視だからこそ事柄が間接的に及ぼす心理的影響というものは、映画史に通底するひとつの手法であると言えるでしょう。以下本映画におけるそんなモチーフ(ネタバレ防止のためストーリーの順番とはバラしてます。でも順番=ストーリーは重要ではない)を挙げてみます。
・幻の楽園とよばれる(非可視化されことで神秘性が増す)ビーチ。
・かなりおかしな言動で素性がわからない謎の男。
・世界を偽ってよそ者に心地よい場所を提供するものとしての「観光」への嫌悪。
・ネットカフェで全員が個別にネット世界(=パラレルワールド)に向かう姿。
・死にそうになって苦しんでいる仲間を外のテントに隔離し、その存在と彼がいることによって思い出される悲劇を忘れるための非可視化。
・仲間を銃で撃つという悲劇が可視化(衆目のもとで)されることで崩壊するコミュニテイ。
・別世界(楽園)への象徴としてのマリファナ。
・別世界の中で別世界にはまるモチーフとしてのゲームボーイ。
・楽園の外の実世界の猥雑さを可視化したがらない仲間たち。
・都市伝説的な逸話。
・バンコクのカオサンロードという「沈没(=実社会からは認識されない世界)」の象徴。
・自分しか体験していないこと(=他の人物にとっては非可視)を都合よく語る武勇伝。
・「非可視」であることを十分認識していることによって起こってしまう事件。
・お互いバラされては困る秘密を交換することで、(簡単に可視化されてしまいそうな)非可視化の確保への執念。
・夜の月の光によってしか可視化されない神秘的なもの。
それら不可視なものは、それが事実として存在するかしないかにはまったく関わりません。可視化の有無そのものが大きな影響をもたらしているということを、いろいろなモチーフを散りばめらることで示しているようです。僕は映画の専門家ではないので史的なことは言えないし、たくさんあるであろうそういう映画の中で『ビーチ』が特に新しく、何かを成し遂げているとまでは思えません。テンポはいいですがナレーションも多く、テーマを説明しすぎ(不可視なるもの、というテーマなのに!)だったのも少しうるさく感じ、絵としても特筆すべきものはありません。なので映画として点数をつけるなら「まあまあよい」レベルに留まると思いますが、特にweb2.0以降の現代の社会において可視化 / 不可視化というキーワードは特に重要な概念で、タイムリーだと思いメモ的にとりあげてみました。
僕は建築でも、不可視化されているからこそのもの、可視化されることによること、などといった間接的に空間に与える影響のコントロールが重要だと考えております。2008年にはそうした観点で自由が丘にレストラン(+住宅)を設計しました。いずれ、「可視 / 不可視」によって空間の「情報 / 記号性」をコントロールすることで生成する「間接性 / アーキテクチャ的」としての設計行為について論にまとめてみたいな、などとも思っております。
2010/02/03
吉村靖孝さんのセルフ吉村論
「建築家の読書術」吉村靖孝さんの会を聴講して来ました。読んだ本を順に説明しながら、古谷研的思考・MVRDV的思考・その後の思考を巡るセルフ吉村論となっており、非常に明快で面白かったです。吉村さんは僕の遠い先輩、読んでいる本など(特に自分の論文でも扱おうとしている『Code』『監獄の誕生』など)かなり近く、自分の思考が遠い先輩の支配下にあることを再確認させられましたw もちろん意識的にやっている部分はありますが。
ということで、レクチャーが非常にわかりやすかったので、レクチャーの構成そのままに20の本を順に挙げます。(だいたいレクチャー通りのつもりですが、勝手な意訳もしてるかも)
まずは1994-1999に在籍していた古谷研時代の本ということで8冊。吉村さんの関わった仙台メディアテークコンペ古谷案の時の話から建築が行為を規制しないことの可能性を探りたいと、フィルタリングによって「見たいものしか見なくて済む」という社会が果たしていいのかどうか?というテーマから、不完全さを担保するためのコードを考える環境管理型の社会をいち早く提言した
ローレンス・レッシグ, 山形浩生訳『Code』翔泳社, 2001
その環境管理型の社会という概念の起源として、パノプティコン(視線の一方向性が重要)の規律訓練型権力を扱った
ミシェル・フーコー, 田村俶訳『監獄の誕生 監視と処罰』新潮社, 1977
フーコーの規律訓練型権力(監視)が社会に溶け込んでしまう可能性を示唆したものとして
ジョージ・オーウェル, 高橋和久訳『1984』早川書房, 2009
ビッグブラザーが主人公を監視するという中で、裏切られて矯正されていく主人公が最後に、(怯えて暮らしていたんだけど最終的に監視されていることを忘れて)「ビッグブラザーを愛していた」と言ってしまうということが、社会に対する批判に読めるという。
そのような世界認識の違いとして、環境と環世界(生物ごとに環境から選びとった別の視覚世界)を描いた
ユクスキュル + クリサート, 日高敏隆・羽田節子訳『生物から見た世界』岩波書店, 2005
個体間の距離など視覚だけではない、文化を左右する環境とは何か、つまり人間界における環世界的なものを扱おうとする
エドワード・ホール, 日高敏隆・佐藤信行訳『かくれた次元』みすず書房, 1970
『かくれた次元』の続きとして、文化による環世界(つまり、建築のマナー、ふるまい、といった具体的かつ行動の常識を作っていくもの達)と読める
バーナード・ルドフスキー, 多田道太郎監修, 奥野卓司訳『さあ横になって食べよう』鹿島出版会, 1999
そういった、計画しきらずにいかに計画するかという根源的なテーマを建築設計論として実行しようとする
クリストファー・アレグザンダー他, 平田翰那訳『パタンランゲージ』鹿島出版会, 1984
パタンランゲージが持つオープンソース的思想、つまりいかにユーザーと一緒にものを作るか、という問題についてなんでも放任すればいいわけではない、うまく使われるように作るとはどういうことかを論じた
エリック・スティーブン・レイモンド, 山形浩生訳『伽藍とバザール』光芒社, 1999
その実践版と読め、翻訳という行為(特に既に翻訳があるのに再度翻訳するなど)が持つ、(『伽藍とバザール』における)アップデートしたくなる感はどういう動機によるかということ等が熱く語られた
村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』文藝春秋, 2000
という前半には、いわゆるアーキテクチャ型の思想が語られました。そして後半は1999-2001のMVRDV所属時に読んだ、(MVRDV的な)都市論に寄っていく本。
架空の都市を伝聞で記述し、「都市を記述する」ことは「都市を読みこむ」ということだけではなく「都市をつくる」ことになるのではという発想に至ったきっかけの
イタロ・カルヴィーノ, 米川良夫訳『見えない都市』河出書房新社, 2003
MVRDV的都市の切り口のツールとしての統計の操作法についての
ダレル・ハフ, 高木秀玄訳『統計でウソをつく方法』講談社, 1968
その統計のウソを暴き、環境問題を特権的に主張するのではなくきちんと優先順位(とそのバランス)を重視すべきという
ビョルン・ロンボルグ, 山形浩生訳『環境危機を煽ってはいけない』文藝春秋, 2003
MVRDVが数字で都市を記述しようとしたのと同様、木を描くということが単純なルールの設定であるという記述そのもの本質を感じさせる絵本として
ブルーノ・ムナーリ, 須賀敦子訳『木を描こう』至光社, 1999
そういったものごとの記述として、プロテスタンティズム的規律型社会とも言えるオランダの都市についての記述であるとも読める
マックス・ウェーバー, 世良晃志郎訳『都市の類型学』創文社, 1965
アイソタイプ・ピクトグラムなどを使って世界を記述しようとする
展覧会カタログ『世界の表象 オットー・ノイラートの世界』武蔵野美術大学美術資料図書館, 2007
以上のような数学的な記述に関心があったということで
M・C・エッシャー, 坂根厳夫『無限を求めて』朝日新聞社, 1994
色について、認識についての斬新な記述法としての
ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン, 中村昇・瀬嶋貞徳訳『色彩について』新書館, 1997
全住宅を同スケールにて淡々と提示するという「ものさし」が建築の記述法を変える可能性として
東京大学工学部建築学科安藤忠雄研究室『ル・コルビュジエの全住宅』TOTO出版, 2001
そしてMVRDVの師匠であるレム・コールハースが審査したコンペについての特集で、何がポイントなのかよくわからない(から解釈しようと何度も読んだ)という
レム・コールハース「新建築住宅設計コンペ1992 House with No Style」(『JA No.9 1993年春号』新建築社, 1993 所収)
レムのダリについての記述と、ダリとラカンの関係(とジジュクの関係)からレムを想起させるという
スラヴォイ・ジジュク, 鈴木晶訳『斜めから見る』青土社, 1995
という感じで、吉村さん自身の出自に照らし合わせてアーキテクチャ概念からそれによる都市/建築の記述(可視化というテーマ)に至るまで、当時読んで影響を受けた本からセルフ吉村論を展開するという流れでした。
倉方俊輔さんの、「吉村さんが超合法建築でやったヘンテコなものが持っている秩序の可視化といった明快さ」と「変なものに変なものをぶつけたりと作品で見せるわかりにくさ=非一元化」という一見相反する思考がこのレクチャーで合致したという指摘もなるほど、という感じ。葉山のリノベ作品を例に、もともとある変な既存という普通に考えると有限の範囲の「文脈」に、さらに変なものを「MVRDV的明晰な論理操作」と共に付加することで、他者性を持ち込み、文脈の多元性を作り出しているのではないか、という指摘でした。
まとめは建築というものは都市の中で「可視性を増す」ことが可能であるという観点において重要なメディアと言えるのでは、ということでした。
個人的には、『Code』でレッシグが挙げている4種のコード「法」「市場」「規範」「アーキテクチャ」の中で、吉村さんが『超合法建築図鑑』で秩序の可視化(=「法」)を試み、MVRDV時代に「市場」をダイレクトに反映したような設計手法を体験し、慣習とほぼ同義の「規範」はルドフスキーや今和次郎が昔やったことだとすると、残る「アーキテクチャ」的概念について、吉村さんがどう考え、建築との関係性において何を重視しているかを聞きたかったのですが、質問時間が少なく質問できず。いつか別の機会に。
ということで、レクチャーが非常にわかりやすかったので、レクチャーの構成そのままに20の本を順に挙げます。(だいたいレクチャー通りのつもりですが、勝手な意訳もしてるかも)
まずは1994-1999に在籍していた古谷研時代の本ということで8冊。吉村さんの関わった仙台メディアテークコンペ古谷案の時の話から建築が行為を規制しないことの可能性を探りたいと、フィルタリングによって「見たいものしか見なくて済む」という社会が果たしていいのかどうか?というテーマから、不完全さを担保するためのコードを考える環境管理型の社会をいち早く提言した
ローレンス・レッシグ, 山形浩生訳『Code』翔泳社, 2001
その環境管理型の社会という概念の起源として、パノプティコン(視線の一方向性が重要)の規律訓練型権力を扱った
ミシェル・フーコー, 田村俶訳『監獄の誕生 監視と処罰』新潮社, 1977
フーコーの規律訓練型権力(監視)が社会に溶け込んでしまう可能性を示唆したものとして
ジョージ・オーウェル, 高橋和久訳『1984』早川書房, 2009
ビッグブラザーが主人公を監視するという中で、裏切られて矯正されていく主人公が最後に、(怯えて暮らしていたんだけど最終的に監視されていることを忘れて)「ビッグブラザーを愛していた」と言ってしまうということが、社会に対する批判に読めるという。
そのような世界認識の違いとして、環境と環世界(生物ごとに環境から選びとった別の視覚世界)を描いた
ユクスキュル + クリサート, 日高敏隆・羽田節子訳『生物から見た世界』岩波書店, 2005
個体間の距離など視覚だけではない、文化を左右する環境とは何か、つまり人間界における環世界的なものを扱おうとする
エドワード・ホール, 日高敏隆・佐藤信行訳『かくれた次元』みすず書房, 1970
『かくれた次元』の続きとして、文化による環世界(つまり、建築のマナー、ふるまい、といった具体的かつ行動の常識を作っていくもの達)と読める
バーナード・ルドフスキー, 多田道太郎監修, 奥野卓司訳『さあ横になって食べよう』鹿島出版会, 1999
そういった、計画しきらずにいかに計画するかという根源的なテーマを建築設計論として実行しようとする
クリストファー・アレグザンダー他, 平田翰那訳『パタンランゲージ』鹿島出版会, 1984
パタンランゲージが持つオープンソース的思想、つまりいかにユーザーと一緒にものを作るか、という問題についてなんでも放任すればいいわけではない、うまく使われるように作るとはどういうことかを論じた
エリック・スティーブン・レイモンド, 山形浩生訳『伽藍とバザール』光芒社, 1999
その実践版と読め、翻訳という行為(特に既に翻訳があるのに再度翻訳するなど)が持つ、(『伽藍とバザール』における)アップデートしたくなる感はどういう動機によるかということ等が熱く語られた
村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』文藝春秋, 2000
という前半には、いわゆるアーキテクチャ型の思想が語られました。そして後半は1999-2001のMVRDV所属時に読んだ、(MVRDV的な)都市論に寄っていく本。
架空の都市を伝聞で記述し、「都市を記述する」ことは「都市を読みこむ」ということだけではなく「都市をつくる」ことになるのではという発想に至ったきっかけの
イタロ・カルヴィーノ, 米川良夫訳『見えない都市』河出書房新社, 2003
MVRDV的都市の切り口のツールとしての統計の操作法についての
ダレル・ハフ, 高木秀玄訳『統計でウソをつく方法』講談社, 1968
その統計のウソを暴き、環境問題を特権的に主張するのではなくきちんと優先順位(とそのバランス)を重視すべきという
ビョルン・ロンボルグ, 山形浩生訳『環境危機を煽ってはいけない』文藝春秋, 2003
MVRDVが数字で都市を記述しようとしたのと同様、木を描くということが単純なルールの設定であるという記述そのもの本質を感じさせる絵本として
ブルーノ・ムナーリ, 須賀敦子訳『木を描こう』至光社, 1999
そういったものごとの記述として、プロテスタンティズム的規律型社会とも言えるオランダの都市についての記述であるとも読める
マックス・ウェーバー, 世良晃志郎訳『都市の類型学』創文社, 1965
アイソタイプ・ピクトグラムなどを使って世界を記述しようとする
展覧会カタログ『世界の表象 オットー・ノイラートの世界』武蔵野美術大学美術資料図書館, 2007
以上のような数学的な記述に関心があったということで
M・C・エッシャー, 坂根厳夫『無限を求めて』朝日新聞社, 1994
色について、認識についての斬新な記述法としての
ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン, 中村昇・瀬嶋貞徳訳『色彩について』新書館, 1997
全住宅を同スケールにて淡々と提示するという「ものさし」が建築の記述法を変える可能性として
東京大学工学部建築学科安藤忠雄研究室『ル・コルビュジエの全住宅』TOTO出版, 2001
そしてMVRDVの師匠であるレム・コールハースが審査したコンペについての特集で、何がポイントなのかよくわからない(から解釈しようと何度も読んだ)という
レム・コールハース「新建築住宅設計コンペ1992 House with No Style」(『JA No.9 1993年春号』新建築社, 1993 所収)
レムのダリについての記述と、ダリとラカンの関係(とジジュクの関係)からレムを想起させるという
スラヴォイ・ジジュク, 鈴木晶訳『斜めから見る』青土社, 1995
という感じで、吉村さん自身の出自に照らし合わせてアーキテクチャ概念からそれによる都市/建築の記述(可視化というテーマ)に至るまで、当時読んで影響を受けた本からセルフ吉村論を展開するという流れでした。
倉方俊輔さんの、「吉村さんが超合法建築でやったヘンテコなものが持っている秩序の可視化といった明快さ」と「変なものに変なものをぶつけたりと作品で見せるわかりにくさ=非一元化」という一見相反する思考がこのレクチャーで合致したという指摘もなるほど、という感じ。葉山のリノベ作品を例に、もともとある変な既存という普通に考えると有限の範囲の「文脈」に、さらに変なものを「MVRDV的明晰な論理操作」と共に付加することで、他者性を持ち込み、文脈の多元性を作り出しているのではないか、という指摘でした。
まとめは建築というものは都市の中で「可視性を増す」ことが可能であるという観点において重要なメディアと言えるのでは、ということでした。
個人的には、『Code』でレッシグが挙げている4種のコード「法」「市場」「規範」「アーキテクチャ」の中で、吉村さんが『超合法建築図鑑』で秩序の可視化(=「法」)を試み、MVRDV時代に「市場」をダイレクトに反映したような設計手法を体験し、慣習とほぼ同義の「規範」はルドフスキーや今和次郎が昔やったことだとすると、残る「アーキテクチャ」的概念について、吉村さんがどう考え、建築との関係性において何を重視しているかを聞きたかったのですが、質問時間が少なく質問できず。いつか別の機会に。
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