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2010/06/16

555 Kubiki

ビルのファサードへ映像を投影するインスタレーションで、ハンブルグのOM ウンガース設計の"Galerie der Gegenwart" の壁面をものを発見しました。驚くべきアイディアと技術という印象ですが、映像として主に古典的なボキャブラリーを使っているところがウンガースの建築と対応していて上品さを感じます。
ネタ元は http://vimeo.com/5595869


555 KUBIK | facade projection | from urbanscreen on Vimeo.

2010/02/03

吉村靖孝さんのセルフ吉村論

「建築家の読書術」吉村靖孝さんの会を聴講して来ました。読んだ本を順に説明しながら、古谷研的思考・MVRDV的思考・その後の思考を巡るセルフ吉村論となっており、非常に明快で面白かったです。吉村さんは僕の遠い先輩、読んでいる本など(特に自分の論文でも扱おうとしている『Code』『監獄の誕生』など)かなり近く、自分の思考が遠い先輩の支配下にあることを再確認させられましたw もちろん意識的にやっている部分はありますが。

ということで、レクチャーが非常にわかりやすかったので、レクチャーの構成そのままに20の本を順に挙げます。(だいたいレクチャー通りのつもりですが、勝手な意訳もしてるかも)

まずは1994-1999に在籍していた古谷研時代の本ということで8冊。吉村さんの関わった仙台メディアテークコンペ古谷案の時の話から建築が行為を規制しないことの可能性を探りたいと、フィルタリングによって「見たいものしか見なくて済む」という社会が果たしていいのかどうか?というテーマから、不完全さを担保するためのコードを考える環境管理型の社会をいち早く提言した
ローレンス・レッシグ, 山形浩生訳『Code』翔泳社, 2001

その環境管理型の社会という概念の起源として、パノプティコン(視線の一方向性が重要)の規律訓練型権力を扱った
ミシェル・フーコー, 田村俶訳『監獄の誕生 監視と処罰』新潮社, 1977

フーコーの規律訓練型権力(監視)が社会に溶け込んでしまう可能性を示唆したものとして
ジョージ・オーウェル, 高橋和久訳『1984』早川書房, 2009
ビッグブラザーが主人公を監視するという中で、裏切られて矯正されていく主人公が最後に、(怯えて暮らしていたんだけど最終的に監視されていることを忘れて)「ビッグブラザーを愛していた」と言ってしまうということが、社会に対する批判に読めるという。

そのような世界認識の違いとして、環境と環世界(生物ごとに環境から選びとった別の視覚世界)を描いた
ユクスキュル + クリサート, 日高敏隆・羽田節子訳『生物から見た世界』岩波書店, 2005

個体間の距離など視覚だけではない、文化を左右する環境とは何か、つまり人間界における環世界的なものを扱おうとする
エドワード・ホール, 日高敏隆・佐藤信行訳『かくれた次元』みすず書房, 1970

『かくれた次元』の続きとして、文化による環世界(つまり、建築のマナー、ふるまい、といった具体的かつ行動の常識を作っていくもの達)と読める
バーナード・ルドフスキー, 多田道太郎監修, 奥野卓司訳『さあ横になって食べよう』鹿島出版会, 1999

そういった、計画しきらずにいかに計画するかという根源的なテーマを建築設計論として実行しようとする
クリストファー・アレグザンダー他, 平田翰那訳『パタンランゲージ』鹿島出版会, 1984

パタンランゲージが持つオープンソース的思想、つまりいかにユーザーと一緒にものを作るか、という問題についてなんでも放任すればいいわけではない、うまく使われるように作るとはどういうことかを論じた
エリック・スティーブン・レイモンド, 山形浩生訳『伽藍とバザール』光芒社, 1999

その実践版と読め、翻訳という行為(特に既に翻訳があるのに再度翻訳するなど)が持つ、(『伽藍とバザール』における)アップデートしたくなる感はどういう動機によるかということ等が熱く語られた
村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』文藝春秋, 2000

という前半には、いわゆるアーキテクチャ型の思想が語られました。そして後半は1999-2001のMVRDV所属時に読んだ、(MVRDV的な)都市論に寄っていく本。

架空の都市を伝聞で記述し、「都市を記述する」ことは「都市を読みこむ」ということだけではなく「都市をつくる」ことになるのではという発想に至ったきっかけの
イタロ・カルヴィーノ, 米川良夫訳『見えない都市』河出書房新社, 2003

MVRDV的都市の切り口のツールとしての統計の操作法についての
ダレル・ハフ, 高木秀玄訳『統計でウソをつく方法』講談社, 1968

その統計のウソを暴き、環境問題を特権的に主張するのではなくきちんと優先順位(とそのバランス)を重視すべきという
ビョルン・ロンボルグ, 山形浩生訳『環境危機を煽ってはいけない』文藝春秋, 2003

MVRDVが数字で都市を記述しようとしたのと同様、木を描くということが単純なルールの設定であるという記述そのもの本質を感じさせる絵本として
ブルーノ・ムナーリ, 須賀敦子訳『木を描こう』至光社, 1999

そういったものごとの記述として、プロテスタンティズム的規律型社会とも言えるオランダの都市についての記述であるとも読める
マックス・ウェーバー, 世良晃志郎訳『都市の類型学』創文社, 1965

アイソタイプ・ピクトグラムなどを使って世界を記述しようとする
展覧会カタログ『世界の表象 オットー・ノイラートの世界』武蔵野美術大学美術資料図書館, 2007

以上のような数学的な記述に関心があったということで
M・C・エッシャー, 坂根厳夫『無限を求めて』朝日新聞社, 1994

色について、認識についての斬新な記述法としての
ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン, 中村昇・瀬嶋貞徳訳『色彩について』新書館, 1997

全住宅を同スケールにて淡々と提示するという「ものさし」が建築の記述法を変える可能性として
東京大学工学部建築学科安藤忠雄研究室『ル・コルビュジエの全住宅』TOTO出版, 2001

そしてMVRDVの師匠であるレム・コールハースが審査したコンペについての特集で、何がポイントなのかよくわからない(から解釈しようと何度も読んだ)という
レム・コールハース「新建築住宅設計コンペ1992 House with No Style」(『JA No.9 1993年春号』新建築社, 1993 所収)

レムのダリについての記述と、ダリとラカンの関係(とジジュクの関係)からレムを想起させるという
スラヴォイ・ジジュク, 鈴木晶訳『斜めから見る』青土社, 1995

という感じで、吉村さん自身の出自に照らし合わせてアーキテクチャ概念からそれによる都市/建築の記述(可視化というテーマ)に至るまで、当時読んで影響を受けた本からセルフ吉村論を展開するという流れでした。

倉方俊輔さんの、「吉村さんが超合法建築でやったヘンテコなものが持っている秩序の可視化といった明快さ」と「変なものに変なものをぶつけたりと作品で見せるわかりにくさ=非一元化」という一見相反する思考がこのレクチャーで合致したという指摘もなるほど、という感じ。葉山のリノベ作品を例に、もともとある変な既存という普通に考えると有限の範囲の「文脈」に、さらに変なものを「MVRDV的明晰な論理操作」と共に付加することで、他者性を持ち込み、文脈の多元性を作り出しているのではないか、という指摘でした。

まとめは建築というものは都市の中で「可視性を増す」ことが可能であるという観点において重要なメディアと言えるのでは、ということでした。

個人的には、『Code』でレッシグが挙げている4種のコード「法」「市場」「規範」「アーキテクチャ」の中で、吉村さんが『超合法建築図鑑』で秩序の可視化(=「法」)を試み、MVRDV時代に「市場」をダイレクトに反映したような設計手法を体験し、慣習とほぼ同義の「規範」はルドフスキーや今和次郎が昔やったことだとすると、残る「アーキテクチャ」的概念について、吉村さんがどう考え、建築との関係性において何を重視しているかを聞きたかったのですが、質問時間が少なく質問できず。いつか別の機会に。

2009/12/11

千葉学「大多喜町役場コンペ」講演会











@INAXギャラリー 建築家フォーラム


建築家フォーラム千葉学さんの講演会を聴講してきました。

前半は町役場コンペ案の背景としてのオフィスアーバニズムについて。過去のJAオフィスアーバニズム特集(阿部仁史+曽我部昌史+千葉学+小野田泰明)の紹介と九州に竣工した「子供の城」の紹介。後半は大多喜町役場のコンペとその後。以下要約(メモ)です。

ソニーの新しいオフィス、メディアが変わることでオフィス空間も変わるだろう、という前提での提案。もともとミースの均質空間からほとんど変わっていないという問題意識のもと、オフィス空間に興味を持っていた。普通(最近では少し高くなっても)天井高2800、窓からの距離も(最近では)長くて20mくらいの奥行程度とされるが、オフィス100mキューブというの異例のプロポーションでの提案。

コアの周りにフロアがあるという支配的なツリー状モデル、それを変えたい、都市空間のモデルに近づけたいという欲求に対して
・床をなるべく広くして(メガフロア)・多方向からのアクセスが可能なもの・たくさんの使われ方(貸し方)ができるもの
ということから天井高の高いメガフロアを積層させるという解答に至った。

当然出るであろう批判材料である、空調が大変、コストがかかる、という懸念に対して詳細に技術的な裏付けもやっている。排熱を上に集めることで居住域の空調はそれほどロスがない計画が可能とのこと。さらに床面積に対する外壁率が低いため、相対的に安くできる。結果として
・経路の選択性・ツリーでない構造・都市の中に下町、山の手ができるような不均質性の獲得
が豊かさを生むのではないか。

九州「子供の城」
屋内に遊び場がなかった。子供はどこでも遊びを開発することができるため、プログラムから建築を計画するということができないもの。コンペで勝ったのにも関わらず8棟の分棟を否定され(笑)1棟にした。屋根が起伏を繰り返していろいろな場所を作る、全体が分棟のように見えるひとつながりの空間を作った。プランと整合性があるわけではない、多様な屋根(様々な四角いヴォリュームが)を作る。多様な場所をつくるために、屋根のみに集中したデザイン操作を行っている。

働き場所も子供の場所も同様に、プログラムから導かれないものとして計画しなければいけない。それによって屋根だけのデザインをしたり床だけのデザインをしたりした。そのような建築-プログラムの関係を考えるきっかけがあり、その延長上で大多喜町役場コンペを考えた。

今井兼次設計の大多喜町役場増築コンペ
大多喜町を詳細にリサーチし、特に町屋がきちんと残っていることに特に興味を持った。そんな町の庁舎(見に行った時には1月、寒い)を実際に訪れてみると、断熱材もなく、寒く、コンクリートなども老朽化しており、職員の方々も膝に毛布を掛けたりストーブを炊いたりしているのを目の当たりにした。普通だったら壊して建て替えようとなってしまいそうなところだが、そのような状態にも関わらずそれを残そうとしている町の態度に感銘を受けた。

また、今井兼次がガウディ研究をしていたこともあり旧庁舎(同一敷地内)装飾的なところが多い。そのような空間性も50年愛され続けたものであるということにつながっているのではないか。象徴性と普遍性。そのように50年間保存されたもの、を今後50年活かせるように、古いだけでなく新しいもの、しかし将来古くなることも考えた関係性を提案した。

その根本として、ジョンソンワックス本社ビルのように、「オフィスのフレキシビリティ」と柱のみの造形による「象徴性」を両立できるようなものが提案したかった。それで1次は屋根を提案するということに集中する。1次を通ってから様々な屋根のスタディをした。町のシンボルとしての5角形を使うことから始まり(1次提案)、庁舎の構造である門型のフレームだけ(オーソドックスタイプ)を提案したりする。いろいろなタイプの屋根をスタディ。結果として正方形プランに対して45度にかかる2方向の梁を作っていった。グリッド上の梁ではなく、少し角度をつけるだけで影が多様になる、ということに気づく。その後構造体(梁)のスケールの密度などのスタディをしていき、梁方向について梁のレベルを変えることに。そして最終的に構造の合理性なども加味して45度方向に梁を掛け、大梁の上に小梁(90度回転)という屋根に行き着く。恣意的につくるだけでなく合理性を考えた末。2次プレゼン段階にそういった空間を作りたいというプレゼンをした。

「大多喜に重層する時間と空間」というタイトルでプレゼン時のパワーポイント(1/100くらいの部分平面図とそこでのアクティティ、空間のイメージパースなどがセットになったプレゼンはわかりやすい)を作成。

プレゼンは
1「冗長性と象徴性」というキーワード
2本庁舎の一方向性(門型フレームの長方形ヴォリューム)に対峙する増築棟は2方向性を持つ正方形ヴォリュームの提案
3高い天井高の象徴的な大屋根の増築棟の空間性のアピール
4屋根(現された梁)の作る空間性と、構造設備の合理性
5そこで行われる多様なアクティビティ
6大多喜町によく残存する町屋の屋根(部分的に小屋組が見えていたり、屋根が生み出す多様な空間性)との類似の指摘
という流れ。

5ヶ月くらいやらねばならないコンペだったので命がけだった。4月末に結果が出て今は実施設計の中頃という段階。コンペ案の見直しとスタディをずっとしてきたような状態。実施に入っても未だに屋根の空間のスタディをしている。さらに話し合いで議場、役場など機能の再配置をしなければならず、使い勝手、リクエストによってプランが大きく変わっている。

構造的には門型のフレームが重層して出来ているという形式を守るために柱と耐力壁を分ける、という提案。大梁はねじれに耐えるためにボックス型の鉄骨梁、その上の小梁はH鋼に木を抱かせたもの(座屈防止にも効いている)という構造、屋根はフラット+トップライトという方向性でスタディをする。トップライトを直行させると屋根全体が斜めになる、45度にすると2方向に樋が回る、大梁のレベルを変えず屋根勾配だけを変えるかなど検討した結果今のところ大梁ごと傾ける勾配屋根に、などなど。というのを未だに延々とやっているので決め方がよくわからなかったが、さんざんスタディをしていたのでだんだん見えてきた状態。


古谷:千葉さんの設計のプロセスが見れて驚いた。想像の3倍くらいのスタディがなされている。コンペ時(古谷は審査員)審査員には大多喜町の関係の方も多かったが実は圧勝だった。仮に床はフラットであっても天井(屋根)を集中してデザインするというコンセプトにオフィスアーバニズムなどのバックグラウンドと連関が示されていて展示として完成度が高い。同時に新しいものが加わることで古いものだけではなしえなかった全体像を提示できたということがよかったと再確認したが、新旧庁舎の対峙はどれほど意識したのか。

千葉:増築部分はおおらかな空間がつくれればよい。旧庁舎の門型フレームというボキャブラリーを使いながら細長い平面形の旧庁舎だけでできないものということで正方形の平面を割と早い段階で決定した。が、対比を明らかに意識したわけではない。

古谷:確かに他の案でも正方形は多かった。今回は通常のコンペに比べて1次の次に5社による2次(A1-2枚)を設け、設計の時間を与えようとした。そうしたら千葉さんの屋根は最初(1次)は大多喜の5角形の紋章を屋根に使うと言っていたのに、それが2次ではあっさり格子梁に変わっていた。1次-2次のコンペの段階での進め方はどうだったか?

千葉:やっているほうは長くて苦しい。しかし考える時間が長かったのはよかったとは思う。紋章ではなく(1次で言ったことを2次でやらないということは)格子梁にすることは苦渋の決断だった。しかしダイレクトなシンボリズムは正直どうかな、というのもあったし、5角形は難しく、構造の合理性にたどり着かないと思ったのもあり、変更するに至った。2次提案の時間はほぼ屋根のスタディに費やした。

古谷:近年本格的なコンペがなくなり、簡単なイメージで議論してプロポーザルで選ばれることがほとんどになった。1次のときに出したものしか2次に使えない、という類の(よくある)レギュレーションが実は思考の時間を狭めているのではないか、という問題意識がある。つまり1次にぱっと考えて出したものが通ってヒアリングまで行ってしまうと、深く吟味することなくそれをやらねばいけない状況になっているのではないか。ということで1次はあっさり、2次で5社を選んでから時間を与えてディベロップしていただく、というこのコンペのやり方(2次選出後A12枚を提出し、その後プレゼンというやり方 < 最近の主流は1次で提出したものを選び、それをもとに追加資料なしでプレゼンする)を設定した。



以上、講演メモです。メモなので正確でない部分、興味ないところの恣意的な省略はお許しください。
個人的には屋根に集中するがあまりのファサードの不在(役場の顔として)と、屋根と門型フレームというボキャブラリーを両立させることによって屋根も門型も目立たなくなる問題(つまり屋根なら大屋根が張り出した構造でないと内部しか屋根の恩恵を享受できず屋根としての存在感が薄まる、門型は屋根と構造壁などが必然的に存在することでその価値が把握しにくい)、などが気になった点でしょうか。それはともかくスタディ過程を詳細に追うことができるプロセス派には欠かせない展示+講演会でした。

2009/11/02

ラグジュアリーとは何か

東京都現代美術館で開催されている『ラグジュアリー展』を見てきました。その導入の文章がなかなかよかったです。

「ラグジュアリー — それは、時代と場所を超え常に私たちの心をとらえてきました。同時に私たちは、ある種の批判的なまなざしでそれを見つめてきました。常に姿を変え、手に入れたかと思えば彼方へと逃げて行く。にもかかわらず、それがない社会は想像しにくい。ラグジュアリーが持つあいまいさ、そして、私たちの生活とのかかわりの深さが、この言葉に今なお失われることのない輝きを与えています。」

ラグジュアリー=豪華=時代錯誤である、という態度を否定し、もちろん昨今の装飾的デザインの流行とも異なり、「ラグジュアリー」を憧憬の社会性という文脈に置くあたり、なかなか深いなぁと。逃げること=憧れという構造をうまく表しているように感じます。

展示は19世紀頃の貴族のドレスから始まりシャネルやイヴサンローランあたりまでのドレスがずらっと並び、服飾のヒト達にとってはきっと生唾もの。「モンドリアン」というスーツ(モンドリアン柄)等もあり、その先にはマルタン・マルジェラとコムデギャルソン(会場設計:妹島和世)の展示。

どれも面白いですが、マルジェラの制作時間が明記されていることに驚きます。「一着の服が出来上がるまでにかかる時間もデザインや素材と同様の価値があることを、マルジェラは私たちに教えてくれます。これは、効率性や利便性のみが優先されがちな現在に対する問題提起でもあります」とあり、これまたなるほど、と。服飾の分野が抱える問題意識がこういうところに表れているのは興味深い。何がものの質を左右するか、というまさにラグジュアリーな問題提起です。

個人的な好みとしてはギャルソンの服が展開されて(およそ服とは思えない形)撮りおろされた写真が一番ぐっと来ました。着ることを考える、というのと同時に機能と形態の不一致を批判的に追求する姿勢に共感。まあ批判的な眼で見ればこじつけにも捉えられますが、これまたラグジュアリーとは何かという文脈において展示をされたことが、この展覧会を奥深いものにしていたと思います。

2009/10/11

20XX年の建築原理展

銀座INAXギャラリーにて『20XX年の建築原理展』最終日にすべりこんできました。

本は読んでいたのですが、展示ではさらに多くのスタディ模型が順に並んでいました。そのスタディ(作業量)の多さについて、単純に本の内容に比べて「こんなにやっていたんだ」と感じさせる量で、同行者も同じ感想。プロセス本でありながらスタディの量を強調して掲載しない、掲載案を選別している、とはどういう編集の意図があったのでしょうか?本の質を高めるためにスタディ案を厳選する必要(似たような模型も少なくないですし)があったのか、展示とのギャップを演出(本→展示の場合は有効でも展示 →本の場合は、、?)することで新鮮さを与えようとしたのか、途中の議論を重視してあえて時系列的なスタディプロセスを表現しなかったのか?少なくとも本→展示といった僕の場合は非常に楽しめましたが。予想を上回る驚きをもたらす展覧会の実現とはそう簡単でないはずだし。

ともあれ、会場では平田晃久案と藤本壮介案の模型が時系列的に順に並んでいるのですが、両者の違いが興味深かったです。

山、ビルといったメタファーを使いながら、常に敷地地図と一緒に模型を作成して都市におけるインパクトを模索する藤本。ほとんど最後まで敷地模型なし、本体の形態の原理を追求する平田。それでいて最後には1/100の大きな模型作って敷地外はほとんど省略する藤本と、1/200で敷地外のかなりの範囲まで表現する平田。案の進め方も、平田案がピースの集積とチューブの集積で線形的に発展するのに対し、藤本案は、細長いビルの集積、斜めに密集するビル、イソギンチャク型、入れ子状の山、ポーラスな積層の山、といろいろなアイディアをトライ&エラー。

建築生成の原理を発展させようとする平田と、都市に対するインパクト創出の藤本という対比に彼らの設計スタンスが現れていたように感じます。ただやはり、このプロジェクトの二つの軸となる「建築の原理」と都市に対していかに建築を考えるべきかという「建築生産の原理」との乖離は免れていない。これは案が面白いから余計にそう感じるとも言えますが、展覧会では特に前者よりの印象。普通の人が見て「これは奇抜だけど、、よい!」と言うにはまだハードルがありますね。これはみんなの課題でもあり。


追記:本書(企画)の編集協力のmosakiさんに聞いてみたところ、プロセス本を作っていた段階(毎月建築家が案を出してくる段階)で既に、スタディが選定され、絞られていたとのこと。彼らにとっても展示の時に見た事のなかった多くの模型が出て来たと仰っていました。つまり、案生成のプロセスにおいては何を出すか、そこでそれぞれの建築家としての選定があり、最終案へと進むという、リアルなプロセスがドキュメントとして本になっており、展示ではそれらを振り返った時に裏から出て来た「プロセスのプロセス」としての模型が再編集されたメタプロセスとなって展示を構成していた、といったことですね。そういった二段階のプロセスの提示であるという、ドキュメント企画としては極めて興味深い見方が出来る展覧会でした。見逃した人は本を熟読すべし。

2009/10/04

建築の社会的価値の変容の追求

伊東豊雄・藤本壮介・平田晃久・佐藤淳『建築20XX年の建築原理へ』INAX出版、2009

INAXギャラリーで行われている『建築20XX年の建築原理へ』展の本書、ギャラリーにはまだ行けていない(来週まで?)のですが、読んでみました。4人が架空のプロジェクトを元に議論したり案を出し合ったりして建築をつくるドキュメント本。

タイトルとなっている新しい建築原理を模索するというテーマで、例えば建築の大学生や大学院生にとっての建築を考えるプロセス本(最良の部類だと思う)として「建築形成の原理」を、社会にまみれた大人のヒトに対して建築とはどういう社会的存在なのかを改めて問いかける「建築生産の原理」ふたつの軸があるようです。

建築案は大変面白く見れましたし、形態とかコンセプトとか建築そのものにももちろん興味がありますが、これくらいの規模の問題設定では、特に日本では社会にどう立ち向かうかといった枠組みの方を重視せざるを得ません。「奇抜だけど、意義有り!」というマニフェスト的なインパクト生成のツールとしてデザインが存在する、そんな感じがしています。

そのような建築生産の原理よりの気になった文言を以下、ざざっと抜粋・引用します。

平田:東京ミッドタウンのプロジェクトや高層マンションなどがぼこぼこ建っていますが、そういうみんなが知っている東京のプロジェクトをアトリエ派の建築家がやっていない p042
伊東:実際にはあそこで仕事をしたい人がたくさんいるのに、仕事をしてはいけないという約束があった。名目上はハウジングにして、住むことを前提にプランニングしないといけなかった。民間のマンションでもそういう規制はありますよね。現実と乖離している p044
平田:最近はマンションでも、同じ間取りが並んでいるのは流行らないらしいです。隣室の人の行動が透明に想像できてしまうから p044
佐藤:昔、鉄の値段が人件費よりもはるかに高かった時代は、力学を追究して鉄を減らした。その時代の架構は力学的にも純粋で美しい。いま日本では人件費のほうが高いので、例えば全部大きなH型鋼でつくってしまえということになっています p046
伊東:コンテクストを連続させながらも、巨大な高層建築が可能だという提案をしたい p92
平田:オフィスだと屋外空間の快適性を評価する指標がほぼないので、とりあえず住居から崩していくのもいいかもしれない。住宅のモデルで考えていって、そこに建築の新しい指標を見出すのがひとつのロジック p126
伊東:デパートでは上の方に人が上がらないかもしれないけど三井のマンションだったら上層階のほうが値段が高い p055
山本:パブリックとプライベートに分けるという発想は、近代建築の一番扱いやすい手法に戻ってしまっている p186
伊東:敷地周辺のパークタワーみたいな高層マンションには住みたくないって、ほとんどの建築家は思っている p189


ちなみに、平田晃久案は僕の昔の修士計画にやや似ております笑。空間を多数化することで建築・都市の価値を変容(パブリック-プライベート、外部-内部、住民-通行人、スキマ-ボリューム、経済原理思想-ノスタルジック思想、建築-都市)させるべしといった、概念的な思考も含めて。

2009/09/28

SDレビュー2009

今日は代官山ヒルサイドテラスにてSDレビュー2009(註)の最終日に滑り込んで見て来ました。とは言いつつ、4時過ぎに行ったらすでに終了しており、撤去作業の中あわてて見た感じ。

今年は建築的に眼を引くものが少なかったように思います。大学の研究室で取り組んでいるもの、外国人によるもの、海外でのもの、大きなプロジェクト、ワークショップを絡めたもの、構法的な提案など、「プロジェクトの枠組みバリエーション」を重視した審査だったことが想像できます。

気になったもの(半分は撤去中だったので、見逃したということで、、、)は、

中本剛志+リッチー・ヤオ『A Friend’s House in Arizona』
プログラムで分割した3つの長方形ボリュームが重なってできるアリゾナの住宅。非常に明快だし、アイディア一発のみで終わるのではとの予感もしていたが、それぞれの接合部も面白くデザインされており、なかなか密度が高いように感じた。ただし、「プログラムで3つに分割する」にかかわらず、3本のボリュームがほとんど同じ形態・デザインであること(様々なスタディ模型があったが、すべて3本が同じボキャブラリーでできている)に疑問が残る。全体が一つの形式を持つものであるからなお、個々の差異(プログラムごとに)が強調されたほうがよかったのではないか。

僕らの同僚でもある尹敏煥+李東勲+朴敬熙『Folding screen house』
折れ曲がった3つの素材の壁に囲まれて多様な部屋を創り出すという韓国の住宅。洗練された設計とプレゼンだったが、「3つの素材の壁」で構成する必然性があまり説明されていなかった。また、折れ曲がり方、高さによって多様な室が出来ているとはいえ、やはりどこも微差しか生んでいない。周辺環境が何もないようなところなので、ミニマルな操作によって劇的な差異を生むことを目指すべきだったように思う。そういった印象が感じさせるデザインの固さ(=自ら設定したルールに忠実)は彼ら流なので真面目でよいと思うが、例えば床に地形的な高低差を持ち込むだけでより3つの壁が生きていたはず。

などなど。他にも分散居住というプログラムは既知ながらもデザインの発展具合が面白かった畑 友洋『ネットワーク型集合住宅』、グラフィックが可愛く(個人的な好み)建築のファサード(材料)の設計プロセスを考えさせる藤田桃子+河野直+ケリー・フィンガー『Casa en Peru』、丘に2枚の穴のあいた壁が立つ幻想的な平山裕章+増田信吾+大坪克亘『たたずむ壁』など面白そうでしたが、いかんせん撤去中だったので内容は正確に理解できず、、でした。


註:SDレビューは若手建築家の登竜門と言われるコンテスト・展覧会で、実施を前提としたプロジェクトを対象に、入選した15作品程度の展示が行われるもの。実は僕も今年、とてもイケてるプロジェクトを出しましたが、あっと言う間に落選しました笑。審査員が理解しきれず、ということにしておきます。