今日は代官山ヒルサイドテラスにてSDレビュー2009(註)の最終日に滑り込んで見て来ました。とは言いつつ、4時過ぎに行ったらすでに終了しており、撤去作業の中あわてて見た感じ。
今年は建築的に眼を引くものが少なかったように思います。大学の研究室で取り組んでいるもの、外国人によるもの、海外でのもの、大きなプロジェクト、ワークショップを絡めたもの、構法的な提案など、「プロジェクトの枠組みバリエーション」を重視した審査だったことが想像できます。
気になったもの(半分は撤去中だったので、見逃したということで、、、)は、
中本剛志+リッチー・ヤオ『A Friend’s House in Arizona』
プログラムで分割した3つの長方形ボリュームが重なってできるアリゾナの住宅。非常に明快だし、アイディア一発のみで終わるのではとの予感もしていたが、それぞれの接合部も面白くデザインされており、なかなか密度が高いように感じた。ただし、「プログラムで3つに分割する」にかかわらず、3本のボリュームがほとんど同じ形態・デザインであること(様々なスタディ模型があったが、すべて3本が同じボキャブラリーでできている)に疑問が残る。全体が一つの形式を持つものであるからなお、個々の差異(プログラムごとに)が強調されたほうがよかったのではないか。
僕らの同僚でもある尹敏煥+李東勲+朴敬熙『Folding screen house』
折れ曲がった3つの素材の壁に囲まれて多様な部屋を創り出すという韓国の住宅。洗練された設計とプレゼンだったが、「3つの素材の壁」で構成する必然性があまり説明されていなかった。また、折れ曲がり方、高さによって多様な室が出来ているとはいえ、やはりどこも微差しか生んでいない。周辺環境が何もないようなところなので、ミニマルな操作によって劇的な差異を生むことを目指すべきだったように思う。そういった印象が感じさせるデザインの固さ(=自ら設定したルールに忠実)は彼ら流なので真面目でよいと思うが、例えば床に地形的な高低差を持ち込むだけでより3つの壁が生きていたはず。
などなど。他にも分散居住というプログラムは既知ながらもデザインの発展具合が面白かった畑 友洋『ネットワーク型集合住宅』、グラフィックが可愛く(個人的な好み)建築のファサード(材料)の設計プロセスを考えさせる藤田桃子+河野直+ケリー・フィンガー『Casa en Peru』、丘に2枚の穴のあいた壁が立つ幻想的な平山裕章+増田信吾+大坪克亘『たたずむ壁』など面白そうでしたが、いかんせん撤去中だったので内容は正確に理解できず、、でした。
註:SDレビューは若手建築家の登竜門と言われるコンテスト・展覧会で、実施を前提としたプロジェクトを対象に、入選した15作品程度の展示が行われるもの。実は僕も今年、とてもイケてるプロジェクトを出しましたが、あっと言う間に落選しました笑。審査員が理解しきれず、ということにしておきます。
2009/09/28
2009/09/27
最近twitterを始めてみています。このブログは週に一度程度文章を、twitterでは毎日戯れ言を、というように棲み分けを図ろうとしていたのですが、なんだか混同してきて、しかも最近なかなか忙しいことから、なかなか更新できませんでした。なので若干、文章軽めに、更新多めにというように方向転換しようかと思います。
とはいっても、もともと日々の忙しさにかなり差があるタイプの人間ですので、うまく回せるかは疑問なところでありますが、、、
ちなみにtwitterアドレスです。フォローして頂けると幸いです。
http://twitter.com/Ko_Nakamura
とはいっても、もともと日々の忙しさにかなり差があるタイプの人間ですので、うまく回せるかは疑問なところでありますが、、、
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2009/09/11
延安の窰洞(ヤオトン)近代化

延安にはたくさんの窰洞があるが、その多くが増改築がなされており、それなりに快適に人々が暮らしていた。山の側面にカオサン式と言い、都市部の周辺の傾斜地は窰洞で埋め尽くされているが、都市部が急激な近代化の過渡期にあり、高層マンション等の建設ラッシュが起きている。その建設ラッシュの労働力をあてに内陸の貧しいところから、労働者が移住してきており、そのような階層の労働者の多くが窰洞に住んでいるということが明らかになってきた。いくつかの穴をひとつの家族が持っていることが主であるが、そういった穴の一部を労働者などに貸している例が多い。しかしそれらはそれなりに改築されており、伝統的な居住形態が生活とともに継続していると言えなくもない。彼らは建設(雇用契約)が終わると移住することが多いため、そういった転居ごとに内装を新しくしたりしている。そのような社会背景のもと、結果的に労働者の一時居住によって伝統的住居が維持されているという現状は大変興味深い。それでも女房たちが集まって麻雀を楽しんだり(牌が大きい!)サッシがきれいに装飾されていたりと、快適に使用されていた。
2009/09/03
大山子798芸術区

数日前より北京に来ています。今回は研究調査で延安に行くのですが、乗り継ぎの関係もあり、実は北京は初めてだったりするので2-3日前乗りしてもろもろ駆け足で見学中です。工場をリノベーションしたことで有名な大山子798へ。工場やその周辺施設一帯のかなり広いエリアにギャラリーやアトリエが入っているのでまるで学園祭のよう。ギャラリーはバイヤーの買い付けを期待しているため、ほとんどのものが無料で見れるが、ほとんどは通りに面しており入口の障壁が少ないのはよい。銀座などだとなかなかそうはいかないし、よくも悪くも学園祭的である。なんだかなぁというのもあるけど、これがタダ?というような大空間の展示なども少なくない。
UCCAという美術館(洒落たレストランなども併設されていて、こちらもよい)が唯一15RMBの入場料だったが、それはそれで良質な展示が見れた。巨大スクリーンでゲームをすることができるFeng Mengbo『REATART』や巨大展示室に子供の顔の旗が並んでいるYan Pei Ming『LANDSCAPE OF CHILDHOOD』などは圧巻。
『REATART』は約4.5m x 20mほどのスクリーン2面に囲まれた展示室に、横スクロールのゲームの画面(スーパーファミコンレベルのいかにもゲームな感じ)があるのだが、実はこれがプレイできるのだ!とコントローラーを借りて、やらせてもらった。なんだかすごい体験。基本的に、マリオやスト2など何かのゲームが組み替えられており(オリジナルっぽいのもある)そこをどんどん進んで行く。敵はやっつけても無視してもあまり関係なく、谷に落ちたりしてもゲージが減る(画面の主人公下には常に満タンのゲージと「5」と出ている。が、減らない)事なくRESTARTできる。左の壁の画面をクリアすると右の壁へと進み、クリアするといろいろなバリエーションの面が出てくるが終わりがあるのかないのかわからない。いろいろな場面で敵がたくさん出てくるが、RESTARTを無限に続けるとどうでもよくなり、進むことの価値も、死なないために頑張ることの価値も、敵と対峙してどうこうするという価値も薄れてくる。そうしてRESTART(=GAME OVER)自体の価値を再考する、といったことだろうか。
このふたつなどは明らかにこういった大きめの美術館的なスケールを前提としていたのが印象的。他にはピンぼけした人物写真の色をいじってキラキラつけたりして、ダウングレードしているのに、アップグレードして見えるよ!的なYan Lei『SPARKLING (UPGRADED)』など。
2009/08/10
責任の外部転嫁による「いわれのない攻撃に耐えるヒーロー」という内戦ソリューションの確立
アメリカより帰国しました。復習しておこうと読んだ、内田樹『街場のアメリカ論』(2005、NTT出版)
、ここ最近世間を賑わしている覚せい剤事件にも若干関連(内容自体は関係ないが)するような章があった。
訴訟社会に関する項で、日本が最近導入した裁判員制度(本書は2005年だからそれが決定した頃の文章)の最大の意義(と説明されることが多い)である「アメリカを初め欧米諸国がやっているから」ということの危うさを、陪審員制度の問題点をあげながら指摘しているのだが、それをアメリカの持つ病理の指摘にまで展開するところが面白い。
まずアメリカの弁護士ドラマ『アリーマイラブ』を例にあげ、「陪審員制度というものが要請されたのは、市民の生活実感に照らして納得のゆく評決が「よい評決」であるというアメリカの法意識が存在するから」「どの陪審員にも受け入れられる等身大でシンプルな物語スキーム(ここでは愛と金)で人事をめぐる様々な出来事が説明されてゆく」ことからアメリカにおける「市民参加型」陪審員制度の問題点を指摘する。
また、裁判映画の古典シドニー・ルメット『十二人の怒れる男』(アメリカ、1957)は、初め11人が有罪を主張するが、主役のヘンリー・フォンダのみが無罪を主張して逆転、という映画。彼の忍耐強い説得によって適当に有罪にまとまりかけていた結論をひっくりかえすのだが、内田は、そのヒーローがいなかった場合に有罪になっていた可能性の恐ろしさととその確率の高さ、その逆転劇すらも、他の陪審員達が「やっぱり有罪」というなら自分も有罪でいいや、という適当さの存在のもとに成り立っているのではという恐ろしさ、さらに「自分の価値観に微塵の疑いも抱かないようなイデオロギー的確信を持った人間(主役のヒーロー)がひとりいると、周囲の人はどうしてもその確信の強さに引きずられる」傾向を指摘する。
これらの抱える問題はO・J・シンプソン裁判、マイケル・ジャクソン裁判など実際の事例でも同様であるし、多量に存在する弁護士達の巧みな説得・リードによって陪審員達がコントロールされることが多いのは明らかなわけである。内田はそういったアメリカの、弁護士や訴訟事例なども含めた裁判制度への信頼性を問題視しているのだが、それをアメリカ的なるもの、「内戦ソリューション」の適応であると議論を展開していく。
トマス・サスを引いて「現代では盗人は『クレプトマニア』(窃盗癖患者)であって、本人は窃盗の行為に責任を取らなくてよい。彼はただ彼の与り知らないどうにも統御できない欲動に外部から衡き動かされたにすぎないのである。」「放火犯は『ピロマニア』(放火癖患者)である。同じことは強姦魔にも、賭博狂にも、、、」と、「犯罪者が精神病を理由に免責を求めるアメリカの風潮を厳しく批判し」「個人の自由意志を否定し、すべてを個人の外部にある『病因』に帰することで、社会を『非人称化』しようとしている」とし、このような避け難い他者からの攻撃を「構造的な矛盾」ととらえることがアメリカの危機管理の基本であるとする。
そのように、身に起きるさまざまのトラブルについて自らの責任を反省するよりも前に、まず加害者を探し出して、「いわれのない攻撃を受ける被害者」となろうとするアメリカの「他責的なマナー」が、失敗から学習するという習慣の欠如を生むのだという。このような「社会矛盾を弥縫して、解決を先延ばしにするためにはもっともよく用いられる」のが「内戦ソリューション」であり、このようなアメリカ化(そう振る舞うことが正しいという歪んだ思想の浸透)が進むことでモンスターペアレンツの問題などが増加しているという日本の現状の説明にまで発展させているのが面白かった。
訴訟社会に関する項で、日本が最近導入した裁判員制度(本書は2005年だからそれが決定した頃の文章)の最大の意義(と説明されることが多い)である「アメリカを初め欧米諸国がやっているから」ということの危うさを、陪審員制度の問題点をあげながら指摘しているのだが、それをアメリカの持つ病理の指摘にまで展開するところが面白い。
まずアメリカの弁護士ドラマ『アリーマイラブ』を例にあげ、「陪審員制度というものが要請されたのは、市民の生活実感に照らして納得のゆく評決が「よい評決」であるというアメリカの法意識が存在するから」「どの陪審員にも受け入れられる等身大でシンプルな物語スキーム(ここでは愛と金)で人事をめぐる様々な出来事が説明されてゆく」ことからアメリカにおける「市民参加型」陪審員制度の問題点を指摘する。
また、裁判映画の古典シドニー・ルメット『十二人の怒れる男』(アメリカ、1957)は、初め11人が有罪を主張するが、主役のヘンリー・フォンダのみが無罪を主張して逆転、という映画。彼の忍耐強い説得によって適当に有罪にまとまりかけていた結論をひっくりかえすのだが、内田は、そのヒーローがいなかった場合に有罪になっていた可能性の恐ろしさととその確率の高さ、その逆転劇すらも、他の陪審員達が「やっぱり有罪」というなら自分も有罪でいいや、という適当さの存在のもとに成り立っているのではという恐ろしさ、さらに「自分の価値観に微塵の疑いも抱かないようなイデオロギー的確信を持った人間(主役のヒーロー)がひとりいると、周囲の人はどうしてもその確信の強さに引きずられる」傾向を指摘する。
これらの抱える問題はO・J・シンプソン裁判、マイケル・ジャクソン裁判など実際の事例でも同様であるし、多量に存在する弁護士達の巧みな説得・リードによって陪審員達がコントロールされることが多いのは明らかなわけである。内田はそういったアメリカの、弁護士や訴訟事例なども含めた裁判制度への信頼性を問題視しているのだが、それをアメリカ的なるもの、「内戦ソリューション」の適応であると議論を展開していく。
トマス・サスを引いて「現代では盗人は『クレプトマニア』(窃盗癖患者)であって、本人は窃盗の行為に責任を取らなくてよい。彼はただ彼の与り知らないどうにも統御できない欲動に外部から衡き動かされたにすぎないのである。」「放火犯は『ピロマニア』(放火癖患者)である。同じことは強姦魔にも、賭博狂にも、、、」と、「犯罪者が精神病を理由に免責を求めるアメリカの風潮を厳しく批判し」「個人の自由意志を否定し、すべてを個人の外部にある『病因』に帰することで、社会を『非人称化』しようとしている」とし、このような避け難い他者からの攻撃を「構造的な矛盾」ととらえることがアメリカの危機管理の基本であるとする。
そのように、身に起きるさまざまのトラブルについて自らの責任を反省するよりも前に、まず加害者を探し出して、「いわれのない攻撃を受ける被害者」となろうとするアメリカの「他責的なマナー」が、失敗から学習するという習慣の欠如を生むのだという。このような「社会矛盾を弥縫して、解決を先延ばしにするためにはもっともよく用いられる」のが「内戦ソリューション」であり、このようなアメリカ化(そう振る舞うことが正しいという歪んだ思想の浸透)が進むことでモンスターペアレンツの問題などが増加しているという日本の現状の説明にまで発展させているのが面白かった。
2009/08/09
サンフランシスコの朝市とWal Martから見る自由主義と均質化
サンフランシスコのシヴィックセンター近くで朝市を見た。今回の旅で他に意識的にマーケットを見る事は少なかったのであまりいい加減な事は言えないが、良くも悪くも非常にリベラルな、自由主義を感じた。朝市に並ぶ野菜の荷台が大きく、ひとつの野菜(商品)の占める面積の割合が明らかに多いのだ。アジアなどでよく見られるのは、多様な種類を混ぜて、鮮やかにディスプレイすることが多い。それに比べてここでは、まるで卸専門の市場のように、ひとつのものを大量に陳列している店がほとんどだった。人々はそれらの野菜達を自分で「自由に」選んでおり、穿った見方をすればそのように「自由に」選べる権利を主張しているかのように思えた。食料品から日用品など生活に必要なものがすべてそろう巨大なWal Martにも何度か行く機会があった。アメリカではコンビニか、Wal Martか、くらいしか日用品を買う選択肢がなく、週に一度か2週に一度、車で乗り込んで大量に買い付けをするのが一般的だそう。スーパーとドンキが合体して巨大な倉庫の中に入ったようなもの。ここにくればなんでも揃うから何を選択するも自由ですよ、という環境を与えられているようで、これも安直な印象ではあるが、とてもアメリカっぽい。
消費行動においてできるだけ消費者に選択の自由を与えるべしという、資本主義の原則のようなことを行っているようで、その実はかなり均質化しているように思える。どこに行っても同じなのもあるが、店が消費者の自由な選択を可能にするために「なるべく多種のものを大量に並列に並べる」という仕組みの元、販売の意思を放棄しているように見えるからである。今日は○○がたくさんとれたから大量に安く、とか夏に合わせてビール特売を、とか○○が賞味期限間際だから割引、などといったことをせず(しているのかもしれないが、数店覗いた限りではほとんど感じられなかった)に、すべて並列に大量にならんでいるのである。
日本の本屋で各店が競ってポップを掲示するようなことがかなり特殊なことだとどこかで読んだ覚えがあるが、いかに差別化を図るかに苦心するような我々からすれば、ただなんでも与えられるようなやり方が自由だとは思えない。資本主義の根幹は差異の形成であり、消費者に自由を与えることではない(自由な市場は前提であるが)のではないだろうか。他にも日本で言う大店法規制にまつわる問題(いわゆる郊外型大型店舗の出店による地元商店街等の衰退)のようなものはなかったのだろうか、などといろいろ好奇心はわいてくる。
もちろん、一度にものを大量に買うというアメリカ的生活習慣もこういった文化の定着の要因としてあるだろうし、そもそもそういったアメリカ的なものを否定する気はまったくない。それはそれで非常に面白いし、アメリカ的なものを実感として分析するのも今回の目的のひとつではある。ただどこも同じってのだけが、ちょっとなぁ、、と。
2009/08/02
街としてのゲッティセンター
数日前からアメリカ西海岸に来ています。今日はゲッティセンター(リチャード・マイヤー設計)を見学しました。リチャード・マイヤーの集大成と言われる作品であり、石油王ゲッティの膨大なコレクションを、ロサンゼルスを一望できる広大な丘一帯に展示した巨大美術館。まず、車でハイウェイからアクセスしようと走っていると、EXITの標識に「GETTIE CENTER」と出るのに驚いた。その丘には他に何もないこともあるが、「街」と同レベルの扱いとなっている(google社も道に「google」の標識があったが、ハイウェイの標識とは、、)ほどの存在感で、門を入ると地下7層の駐車場がある。そこで車を停め、エレベーターで地上(表示には「パーキングレベル1-7」と「トラムレベル」しかないのがよい。下手に「2F トラム」とか書かれていない )に上がるとトラムで丘の上の美術館まで10分弱。このアクセス方法は、丘の上に巨大美術館があるということを嫌でも意識するため、悪く言えば「権力の誇示」であるが、よく言えば美術館が置かれた「文脈の俯瞰視の提示」である。単純に気分は盛り上がるので、アミューズメントとしては正しく機能していた。
もう一つ驚いたのが、完全に無料(駐車場は15ドルとやや高だが)であって、現在でもかなりの来館者があること。子供から老人、外国人までかなりいろんな種類の人がいたが、まるで公園に来るように、賑わっている。展示は割と古典的なものが多い。人は展示室内部にももちろん多いが、その外の中庭や広場(多種の広場が設計されている)に人が多い。これだけのコレクションを無料で開放することもすごいが、丘の上(ロス中心部から30分程度だが周りには何もなし)の美術館にこれだけ人が集まるという文化的底力を感じざるを得ない。本当に、丘の街というような存在で、市民や観光客が休日に一日かけて遊びに訪れるような場所になっていた。
建築としては集大成とは言え、既知のボキャブラリーで作られているため、空間構成は気持ちがよいが新鮮な感じはしない。上質なリゾートといった感じ。ただ、すべての建築の壁や床や中庭も含めて、800角の白いパネルと、削り出しのトラバーチン、磨かれたトラバーチン(に加えて4割の200角のトラバーチンを細部にあしらう)といった同じ寸法体系でつくりながら素材を変えていくという手法はよかったと思う。マイヤーは丸などの幾何学も入れたり環境に合わせて軸を振ったりしているけど、現代的なアプローチとしてはそのことに集中できるように余計なこと、主題をぼかすことはなるべくしないだろう。そもそもゲッティセンターの設計のこの操作を主題と読んでいるのも意識的な誤読である。でもそのようなコンセプト偏重にしたときに、このような「リゾート」的な、誰もが心地よいと感じる豊かさが出せるかどうかは難しい。
2009/07/10
アフリカのインフォーマル・セクター
武内進一「コンゴの食糧流通と商人 -市場構造と資本蓄積」(池野旬・武内進一編『アフリカのインフォーマルセクター再考』アジア経済研究所, 1998)
アフリカのインフォーマル・セクターについての論文、抜粋・整理します。
アフリカにおいて商業・流通部門は、インフォーマルセクター(政府による規制を受けず、捕捉されない経済部門)の重要な構成要素である。
アフリカの食糧流通に関する研究が本格化したのは1970年代以降。
商人に対して、情報ギャップを利用して不当に高いマージンを獲得し、農民や消費者を搾取するという古典的な商人像は否定される傾向にあり、むしろ経済発展におけるその積極的な役割を評価する論調が支配的になった。市場介入的な政策がことごとく失敗に終わったアフリカ諸国の事例を考えれば、民間商人のイニシアティブを尊重するという潮流はとりあえず妥当である。
キャッサバは、都市、農村を問わずコンゴで最も重要な主食であり、そのほとんどが国内の小農によって生産される。キャッサバは土中から掘り出すと短期間に劣化するため、ほとんどが農村部で加工されてから流通する。調査によれば出荷地域の相互の重なりは少なく、農村地帯においては出荷のために交通機関を選択できる状況にはなく、トラックが3/4を占める。
ふたつの市場の調査で、流通業者のなかでは、トラックを自ら所有し、自己商品の割合が高い男性、というカテゴリーが65.3%、57.5%と最も多い。ただ、片方の市場に不明(8.0%)が多い(もう片方はほとんど0)。つまり片方の市場のみに運輸業に特化している者が1割弱いたということである。これは自分で商品を運ぶトラックすら所有せずに、大商人が買い付けて市場に運んでいる、ということを意味する。
東南アジアの農産物流通は異なって、流通業者のあいだに階層的な分業関係は存在せず、彼らの経済活動はより自律的である(組織化されていない)ようだ。
農民がキャッサバを販売する相手はいつも決まっていることが多い。その活動範囲はたいてい決まっており、広範囲にわたって「なわばり」のようなものが存在する。ただし、取引関係の固定性は必ずしも買い手に価格支配力があることを意味しない。
著者の作成したマージン推計の計算式によれば、トラックを所有する大商人が一回の農村群と市場の往復によって巨額の利潤を得ていることが明瞭にわかる。逆にトラックを賃貸しなければいけない大商人は、高額の賃貸料によって獲得するマージンは低く、運輸の専門業者は一回あたりのマージンはそれほど高くないが、リスクが少なく利潤率は高い。小商人は生存維持水準にすぎない。
つまりインフォーマルセクターであっても、大規模な活動によって高蓄積を実現する経済主体と、小規模・零細主体とが混在しているのである。同時に運輸サービス市場の寡占利潤が農産物市場の寡占利潤に比べて高水準であることを示唆するものである。結局はトラックを所有するか否かが大きい。
このような格差を生む要因として、トラック購入のために金融市場の未整備と、トラック所有にともなうリスク(悪路による故障など多く、保険もほとんど効かない)があげられる。逆に、このような要因によって、トラックのレント料が高騰し格差を拡げているとも言える。したがって政府介入の策として単にトラック購入補助などの直接的政策だけでなく、道路整備、金融・保険市場の整備など、公汎な政策が必要とされるのである。
アフリカのインフォーマル・セクターについての論文、抜粋・整理します。
アフリカにおいて商業・流通部門は、インフォーマルセクター(政府による規制を受けず、捕捉されない経済部門)の重要な構成要素である。
アフリカの食糧流通に関する研究が本格化したのは1970年代以降。
商人に対して、情報ギャップを利用して不当に高いマージンを獲得し、農民や消費者を搾取するという古典的な商人像は否定される傾向にあり、むしろ経済発展におけるその積極的な役割を評価する論調が支配的になった。市場介入的な政策がことごとく失敗に終わったアフリカ諸国の事例を考えれば、民間商人のイニシアティブを尊重するという潮流はとりあえず妥当である。
キャッサバは、都市、農村を問わずコンゴで最も重要な主食であり、そのほとんどが国内の小農によって生産される。キャッサバは土中から掘り出すと短期間に劣化するため、ほとんどが農村部で加工されてから流通する。調査によれば出荷地域の相互の重なりは少なく、農村地帯においては出荷のために交通機関を選択できる状況にはなく、トラックが3/4を占める。
ふたつの市場の調査で、流通業者のなかでは、トラックを自ら所有し、自己商品の割合が高い男性、というカテゴリーが65.3%、57.5%と最も多い。ただ、片方の市場に不明(8.0%)が多い(もう片方はほとんど0)。つまり片方の市場のみに運輸業に特化している者が1割弱いたということである。これは自分で商品を運ぶトラックすら所有せずに、大商人が買い付けて市場に運んでいる、ということを意味する。
東南アジアの農産物流通は異なって、流通業者のあいだに階層的な分業関係は存在せず、彼らの経済活動はより自律的である(組織化されていない)ようだ。
農民がキャッサバを販売する相手はいつも決まっていることが多い。その活動範囲はたいてい決まっており、広範囲にわたって「なわばり」のようなものが存在する。ただし、取引関係の固定性は必ずしも買い手に価格支配力があることを意味しない。
著者の作成したマージン推計の計算式によれば、トラックを所有する大商人が一回の農村群と市場の往復によって巨額の利潤を得ていることが明瞭にわかる。逆にトラックを賃貸しなければいけない大商人は、高額の賃貸料によって獲得するマージンは低く、運輸の専門業者は一回あたりのマージンはそれほど高くないが、リスクが少なく利潤率は高い。小商人は生存維持水準にすぎない。
つまりインフォーマルセクターであっても、大規模な活動によって高蓄積を実現する経済主体と、小規模・零細主体とが混在しているのである。同時に運輸サービス市場の寡占利潤が農産物市場の寡占利潤に比べて高水準であることを示唆するものである。結局はトラックを所有するか否かが大きい。
このような格差を生む要因として、トラック購入のために金融市場の未整備と、トラック所有にともなうリスク(悪路による故障など多く、保険もほとんど効かない)があげられる。逆に、このような要因によって、トラックのレント料が高騰し格差を拡げているとも言える。したがって政府介入の策として単にトラック購入補助などの直接的政策だけでなく、道路整備、金融・保険市場の整備など、公汎な政策が必要とされるのである。
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